2023年1月22日 主日礼拝説教

《 世から選び出された者たち 

ヨハネによる福音書 15:18~27

わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。「僕は主人にまさりはしない」とわたしが言った言葉を思い出しなさい。…わたしを憎む者はわたしの父をも憎んでいる。誰も行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見た上で、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは「人々は理由もなくわたしを憎んだ」と彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。

わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証をするのである。

(ヨハネ15:19c-20a,23-27)

「わたしが、あなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」との主の命令に従う者、イエスさまの友として歩む弟子たちは、世にあっては、憎まれることがありました。イエスをキリストだと証言するものたちは、ユダヤ人たちが、神さまを礼拝するために集まっていた会堂からは、追い出されるようになっていきました。イエスさまの言葉に従い、主を証することで、憎まれる(忌み嫌う、なおざりにする、捨てる、無視する、軽視する)迫害されることがあったのです。

弟子たちが、憎まれ、迫害されるのは、イエスさまがそうであったからです。イエスさまが、この世で成したことは、すべて父なる神さまの命じることでした。イエスさまは、弟子たちに、「わたしを離れては、あなたがたは、何もできない」(15.5)とおっしゃっていますが、イエスさまは、ご自分も「わたしは自分では何もできない」(5.30)と言っていました。イエスさまが語り、なさったことの背後には、父なる神さまがおられました。そして、その命令に従って歩んだ時、憎まれても、軽視

されても、無視されても、喜びをもっていました。主は、その喜びと平安へと弟子たちを招いておられます。

世から憎まれることは、御言葉の実現であって、それ以外に理由があるのではなく(詩編35.19、69.5)、悪の行いを好む、人々の闇がそうさせるのです。

イエスさまが憎まれたのも、弟子たちが憎まれることになるのも、いじめの場合、いじめられる側に問題があるのではなく、いじめる側に問題があるのと同じです。

わたしたちが、もし、イエスさまの友であるがゆえに、主の命令に従うがゆえに、この世で憎まれるようなことがあったとしても、私たちには、味方してくださる弁護者(パラクレートス)がいます。このお方は、真理の霊で、イエスさまのことを明らかにしてくださいます。そして、この弁護者が与えられるとき、キリストの証人としてわたしたちをも立ててくださいます。

主は、この世から、主に従う弟子たちを選び出し、ご自分の友となさいました。「互いに愛し合いなさい」との主の言葉に、従っていく時に、主が生きて働いていることが、わたしたち自身にも、この世にも明らかにされていきます。

《祈り》 

主イエス・キリストの父なる神さま。あなたは、御子をお遣わしになるほど、この世を愛されました。御子は、この世を愛し、救うために、ご自分の命を十字架にささげてくださいました。主が、この世からわたしたちを選び出し、神の愛と慈しみを表す器として、この世へと遣わしてくださいます。主よ、光の武具を身に纏わせて、わたしたちを送り出してください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2023/1/22 橋本いずみ)