2023年2月5日 主日礼拝説教

《 あなたがたは喜びで満たされる

ヨハネによる福音書 16:16~24

はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分のときが来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。(ヨハネ16:20-24)

主の弟子たちは、泣いて悲嘆に暮れ、悲しみ、苦しむことになると主イエスは告げておられます。しかし、その悲しみはやがて喜びへと変わっていきます。

「しばらくすると」と仰ったことが弟子たちには分からず尋ねたがっていたことを知った、主は、「しばらく」ということがどういうことなのか、「陣痛」のたとえで教えてくださいました。「しばらく」というのは、十字架に挙げられてから、三日目に復活するまでのことかもしれないし、主が天に挙げられてから、主が再び来てくださるその時までのことを言っているのかもしれません。

主が弟子たちを選び、主の友たちにとっては、泣いて悲嘆に暮れている、悲しみがあることは、思ってもみないことではなく、起こるべくして起こることです。苦しみや悲しみは避けられないものであると同時に、弟子たちにとって、「しばらく」のことです。苦しみや悲しみを抜けた先には、主と再び会う喜びがあります(20:19-29、21:1-14)。

主は、三日の後に復活して、弟子たちに現れてくださり、彼らが心から喜ぶことになるということと、もう一つ、弟子たちが喜びで満たされる方法を告げておられます。それは、わたしの名によって父に願い、それが与えられる主の名によって願うことです。御子イエス・キリストは、その名によって、父に願いなさい。そうすれば、与えられ、喜びで満たされると弟子たちに教えられました。イエスさまは、弟子たちに、直接、父に願うことを教えられました。祈る時に、「父よ」と祈ることができるのは、御子の霊が与えられているからです(ガラテヤ4:6)。主は、「しばらく」の苦しみの時を生きなければならない弟子たちに、父に願うことを教えられました。悲しみ悲嘆に暮れるとき、悲しみ、苦しみの「しばらく」のときは、主の名によって願うときです。神さまは、恵みの出し惜しみはしません。御子の霊を与えて、喜びで満たしてくださいます。

《祈り》 

天のお父さま。この世の闇に打ちひしがれ、悲しみ、苦しんでいます。助けてください。この世で、主は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と命じられましたが、キリストがしてくださったように、互いに愛することは、とても難しく、その道が閉ざされていっているように感じます。主にある交わりの中で、愛し愛されることを経験させてください。わたしたちが遣わされて行く、家庭、社会、学校、職場で、あなたの愛にとどまって、愛することを始めさせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2023/2/5 橋本いずみ)