《 ナザレのイエスを捜しに 》
ヨハネによる福音書 18:1〜11
イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て「誰を捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは、「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのであれば、この人々は去らせなさい。」それは「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした。」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手の下の名前はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」(ヨハネ18:4-11)
イエスさまは、弟子たちの足を洗い、弟子たちに語り、弟子たちとともに父なる神さまに祈った後、キドロンの谷(歴下15:16)の向こうの園に行きました。この園は、他の福音書では、ゲツセマネ(マルコ14:32)というところで、いつもの祈りの場所でした(ルカ22:10)。そこへ、ユダ(ヨハネ13:27)は一隊の兵士(ローマ兵)と祭司長たちやファリサイ派の人々が遣わした下役たちを引き連れてやってきました。サタン主導権を握られているユダは、ローマとユダヤの権力者を引き連れて、御子イエス・キリストを捕らえにやってきたのです。彼らは、武器を手にして、戦いに行く様相で主イエスと弟子たちの前に現れました。
「時が来た」(12:23、13:1)と弟子たちに語っていた主は、すべてのことを知っておられます。そして、主は捕らえられていくのですが、この場を支配しているのは、御子イエス・キリストです。捕えようとやってきた人たちは、主が「わたしである」(出エジプト3:14、イザヤ43章)というと、そのたった一言で後退りして倒れます。ペテロが下役に打ってかかりますが、イエスさまが「わたしである」と言った一言で後退りして倒れてしまうのですから、手を下して彼らを退けることは簡単なことだったでしょう。しかし、主は、ペトロには「剣を納めるように」と言い、父が定めた杯を飲むこと(多くの実りをもたらすために一粒の麦となること、弟子たちを愛し抜き、命をささげること)を告げるのです。ヨハネによる福音書は、イエスさまが捕らえられるとき、イエスさまのために剣を出して敵の耳を切り落としたのは、ペトロだったと、そして、耳を切り落とされたのはマルコスだったと告げています。イエスさまの弟子たちも、サタンに主導権を握られてイエスさまに敵対する勢力も剣を持っていたのです。「自分を守るため、自分の大切なものを守るために」剣を持たなければ、生きていけない人々のために、主は、父がお与えになる杯を飲まれます。
《祈り》
父なる神さま。主の十字架への道行を覚える受難節の日々の中にあって、御子イエス・キリストがあなたからの杯を受け取り、わたしたちに救いの道を開くために苦しみを負ってくださったことを思い起こし、あなたの御名を褒め称えます。剣を持たずしては生きていけないわたしたちを憐んでください。剣を鞘に納めて、主のゆかれる道を妨げることなく、十字架の主と共にあゆむことができるようにしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2023/3/19橋本いずみ)