《 父と二人の息子 》
ルカによる福音書 15:11~32
すると、父親は言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる、わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(ルカ15:31-32)
これは、ある父の話です。父親は二人の息子を愛していました。父はどちらの息子も迎えに行きます(20、28節)。どちらの息子にも与えます(12、22、31節)。
父にとっては、どちらの息子も、我が子ですが、どちらの息子も、父の子であるということを受け止めていません。
弟は、父の財産を受け取ったら、何日も経たずに全部を金に換えて旅立った。放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いするよりも前から、弟の父親に対する態度は、おかしかったのです。
弟の姿は、神から離れるということが、どれほど、惨めな生き方となるのかを教えてくれます。弟は、父からもらったもので、欲望のままやりたいようにやって、全てのものを使い果たした。父は与えてくれましたが、食べるものがなくても、誰も与えてくれませんでした(16節)。そこで、我に返って、父の家のこと、そこで働き人を思い出し、「わたしは、滅びている」と父の前での自分を知りました。弟は、「罪を認めて、父の家へと帰ります。しかし、父が彼を見つけて、走り寄って、抱き寄せるのです。弟は、「お父さん」と言って罪を告白しますが、それは、父の腕の中でのことです。
父親は、「ずっと死んでいたけど、生き返った。ずっと失われていたが、見つけられた。」と祝宴を開きます。
兄はどうでしょうか。兄は、弟が帰って来たということで、祝宴をしているということを知って、怒って家に入ろうとせず、父に「何年も奴隷奉公してきた。言いつけを無視したことはない。「子山羊一匹すらくれなかった」と言います。兄はずっと父と一緒にいたのに、「私のものは、全てお前
のものだ」と言うほどに与えられてきたのに、父の喜びを受け取っていなかったのです。
家に入らない兄に、父は、家に入るように懇願しています。
兄は、弟の帰還を喜べない。父が弟を受け入れていることで、兄は拒絶されたと感じている。いなくなっていた子が見つかったのは、兄にとっては、祝宴を開くほどのことではありませんでした。しかし、父にとっては、祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは、当たり前のことだというのです。
イエスさまが徴税人や罪人と一緒に食事をすることで、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、不平を言いました。イエスさまは、律法学者やファリサイ派の人の家にも行って食事をしました。ファリサイ派と徴税人には、一緒に食事ができないほどの隔たりがあったのは確かです。どちらかを愛して、どちらかを愛さない神さまではない。神は、弟も兄も愛される父です。
これは父が息子たちを愛する物語。わたしたちも息子たちを愛してやまない父との関係へと導かれています。
《祈り》
天の父なる神さま。あなたが、今日、私たちと共にいることを喜んでくださることを知りました。一方が愛されれば、一方が愛されていないかのように、感じてしまう私たちです。あなたが、私たちに与えてくださっていることを、あなたが私たちをあなたの家へと招き入れようと呼びかけてくださっていることを、受け止めさせてください。あなたと一緒に、喜ぶものとならせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2025年11月23日 橋本いずみ)

