2025年9月21日 主日礼拝説教

《 マルタとマリア 》

ルカによる福音書10:38~42

主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」                  (ルカ10:41-42)

イエスさまを迎えてもてなすマルタ、イエスさまの御言葉に聞き入るマリア。どちらもイエスさまを主として歩んだ姉妹です。教会では、マルタ派?マリア派?と話題になることがありますが、ずっとマルタ、ずっとマリアというよりかは、マルタにも、マリアにもなりうると思います。

ヨハネによる福音書を見ると、マルタとマリアの兄弟ラザロのことで、この家を訪れて、涙を流し、ラザロを墓から呼び戻したことが記されています(ヨハネ11:1-44)。ここでも、マルタは、イエスさまを迎えに出て、マリアはイエスさまの足元にひれ伏しています。今日の聖書の箇所と似ている姿が出てきています。

マルタは、イエスさまを中心とする一行を迎えて、もてなしました。イエスさまを迎えて、弟子たちの群れに仕えていたということです。しかし、マリアは、イエスさまの足元に座ってただイエスさまの御言葉を聞いています。そんな、マリアを見て、イエスさまに向かって声をあげるのです。家のことを取り仕切って、忙しく立ち回っていたマルタは、マリアにも手伝って欲しいと思っていた。しかし、直接マリアに言うのではなく、イエスさまにそのことを告げます。マルタは、イエスさまが主であるということを知らない人でありません。しかし、色んなことで心がいっぱいになっていたのです。

主が「マルタ、マルタ」と呼びかけます。イエスさまは、マルタのことをよく見ていて、「あなたは多くのことに思い悩み(心を配って)、心を乱している」と言います。それが、ダメだとか、いいとか言っているのではありません。ただマルタの状況をイエスさまはおしゃっているだけで、それを責めているわけでもありません。「しかし、ただ一つの必要がある。」と主は言われます。イエスさまが、お入り用になるということです(ルカ19:30-36)。ただイエスさまがマルタを必要とされているということです。

マルタを見ていたイエスさまは、マリアのことも「マリアは良い(神さまのよいあり方)分け前を選び取った」見ておられます。マリアが、主の足元で御言葉に聞き入っているのは、神さまが与えてくださる分として彼女が選び取った在り方だと主は見ておられるのです。そして、神が与えてくださる良い在り方として、選び取ったものは、取り上げてはならないとイエスさまは教えておられます。マルタがいて、マリアがいて、イエスさまを主とする群れは、守られます。 御言葉に聞き入ることを選び取りながら、仕えるときには、ただイエスさまが、わたしを呼んでくださって、主が必要とされていることを覚えつつ仕えるものでありたいと願います。

《祈り》

天の父なる神さま。イエスさまが、今日も私たち一人一人に目を止めてくださって、よくご覧くださって、心にかけていてくださることをありがとうございます。色んなことで心がいっぱいになるとき、イエスさまが呼び止めてください。それぞれが、主が良いとされるあり方を選び取ることができますように。そして、ただ主イエスさまの必要を知って仕える者とならせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

(2025年9月21日 橋本いずみ)