2025年9月28日 主日礼拝説教

《 愚かな金持ちのたとえ 》

ルカによる福音書12:13~21

群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほどのものを持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」…自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:13-15、21)

マルタもマリアに手伝ってくれるように言ってほしいと、イエスさまに訴えましたが、ここでも、イエスさまから兄弟に言ってほしいと願う人が出てきました。

イエスさまに訴えるのには、自分は、兄弟姉妹を変えられないけれどもイエスさまなら変えることができるそういう期待があるのかもしれません。祈りにおける主との対話、の中では、こういうことは、よくあると思います。

群衆の一人は、財産相続のことで、イエスさまならば、公正な裁きをしてくれると期待をして、意見を求めて来ました。仲裁を求めて来たのですが、イエスさまは、この人を貪欲から救い出されます。そして、それは、この人一人の問題なのではなくて、この人が発したことが発端となっていますが、すべての人に関わることであり、貪欲から自由にされて生きることをイエスさまはお教えになります。

財産を増やすことが、自分の命を保つことのできる最も良い方法だと考えている。そうなると、少しでも多く自分のものにしておきたいと思うのは、自然なことだと思います。しかし、この世を生きる「わたし」という存在は、自分の財産によって保障できるものではありません。

イエスさまは、たとえ話をされました。愚かな金持ちのたとえ。倉に収められないほど豊作だった。しまっておくところがないので、もっと大きいのを建てて自分に言ってやるのだ「これから先、何年も生きていくだけの蓄えができたぞ!休め、食べ、飲め、楽しめ!」彼が得たものは、不正して得たものではありません。むしろ一生懸命働いて得た成果でした。確かに彼は、一生懸命働いたに違いありませんが、この収穫は、雨が降り、日の光があってこそのものでした。この金持ちは、自分だけを見ていて、神が与えてくださった収穫物だとは思っていない。そして、彼は、「「これから先、何年も生きていくだけの蓄えができたぞ!」と自分で自分に語りかけ、「休め、食べ、飲め、楽しめ!」と自分を祝福しているのです。彼の世界には、神はいない、他者もいないのです。

金持ちは、自分の財産を納める倉がないと言って、数々の倉を建てました。彼に豊かな実りを与えてくださった方は、倉をもたない烏を養ってくださる神さまです(24節)。

イエスさまは、富むことが愚かだと言っているのではありません。神の前に富むことを教えてくださっているのです。神が、私たちの存在を、覚えてくださって、神と共にある命を生きたことを、数えていてくださる。このことを知って生きる時、私たちが貪欲から自由にされて生きる道が開かれていくのだと思います。

《祈り》

天の父なる神さま。わたしたちも、様々な問題を抱えながら、あなたの前に進み出て来ました。私たちの直面している問題や課題から、神さまの御前にある幸いや神と共に生きることを教えてくださることを感謝します。主が、私たちの歩みを主が正しく数えてくださっていることを覚えさせてください。与えられたものを感謝をもって受け取り、用いるものとならせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。(2025年9月28日 橋本いずみ)