2025年9月7日主日礼拝説教

《 聖なる生活 》

ヘブライ人への手紙12:12~17

また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。(ヘブライ12:13-14)

ヘブライ人への手紙では、主イエス・キリストを見つめながら、「自分の足でしっかりまっすぐな道を歩きなさい」と勧めた後、「すべての人と平和を、また聖なる生活を追い求めるように」と命じられます。

旧約聖書にイサクの息子で、兄エサウと弟ヤコブいう双子が出てきます(創世記25:19-34、27-33章)。本来長子の特権を与えられて、父から子へと継がれる祝福を受けるのは、エサウでした。しかし、エサウは、たった一杯の食事と長子の特権を譲り渡してしまいました。エサウは、神の嗣業―神ご自身を身に帯びて生きるーとなる長子の特権をたった一杯の食事と引き換えてしまう。神へと続く、イエス・キリストの系図には、エサウではなく、ヤコブの名が記されています(ルカ3:23-38)。

エサウが特別おろかだったとは言えないと思います。私たちは、皆エサウと同じです。いかに自分を満足させるかで必死になっています。

長子の特権を譲り受けて、父からの祝福を受け継いだヤコブはどうだったでしょうか。彼は、兄の怒りを買って、叔父の家へと逃げ、そして、神さまから「私はあなたと共にいいる」と約束され、「生まれ故郷に帰りなさい」と言われます。ヤコブは、エサウとの和解の前に、ペヌエルで独り後に残って、格闘します。ヤコブは、神と人と闘って勝ったと言われます。そして、その時に、腿の関節を打たれて、生涯、足の不自由な者として、歩き続けました。

自分の罪との格闘、それは、祝福を受け取るための格闘。祝福を受け取るために格闘する。これは、血の滲む格闘。イエスさまが、私の罪のために血を流して、格闘してく

ださった。だから、わたしたちは、神さまが与えてくださる祝福を受け取るために、格闘します。罪が赦されるかどうかのために格闘するんじゃなくて、本当に罪赦されて神の祝福に生きるために格闘する。神が祝福してくださっている、神に繋がる祝福の系譜にイエス・キリストによって、招かれました。御子イエス・キリストは、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くし、そのためにこの世を生き、命をささげてくださいました。

兄の怒りを恐れ、父や母のせいにして逃げ続けることもできた。ヤコブは、夜の間、神があなたを祝福しておられるということを受け取るために格闘し神を見た。この格闘で、ヤコブは顔と顔を合わせて神を見、人を騙してしか生きることのできなかったこの自分に、神が祝福を注いでおられることを知った。

エサウは、祝福を受け継ぎたいと願った、悔い改めの機会がなかったのです。私たちには、祝福を受け継ぎたいと願いさえすれば、イエス・キリストによって悔い改めの機会が与えられています。

《祈り》

天の父なる神さま。イエスさまが、わたしたちの罪のために血を流して闘ってくださいました。それほど、神さまが私たちの人生を尊く受け止めてくださっていることを知りました。人の怒りが恐ろしくなることがあります。人のせいにしたくなることもあります。主よ、私たちと、私たちが出会う人々が、祝福された人生を歩むことができるように、わたしたちとともに闘ってください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。

アーメン。     (2025年9月7日 聖餐式橋本いずみ)