2020年11月15日主日礼拝説教

《 目を上げて見よ 》

ヨハネによる福音書   4:27〜42

その間に弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは「刈り入れまでまだ四ヶ月もある」と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。すでに、刈り入れる人は報酬を受け永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も共に喜びのである。そこで「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」ということわざの通りになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

(ヨハネによる福音書4:31-38)

イエス・キリストの弟子たち

イエスさまが、サマリアの女性と対話をしている間、弟子たちは、町へ食べ物を買いに町に行っていました。弟子たちは、帰ってきたときイエスさまがサマリアの女性と話をしておられたのを見て驚きます。そこに割り入って、声をかけるものはいませんでした。弟子たちは、イエスさまがご覧になったようには、サマリアの女性を見ることができませんでした。イエスさまは、罪と過ちの中で生きてきたサマリアの女性を憐れみ、声をかけ対話をし、まことの礼拝へと招かれました。

弟子たちは、「サマリア人とは交際しない」「女性には声をかけない」方が、自らの清さを守り、誘惑を避けることができる道だと思っていたのです。イエスさまは、深い憐れみをもってサマリアの女性をご覧になりますが、自らは罪に動かされることなく、重荷を担い、清め、赦しを与えられるのです。

目を上げて見よ

弟子たちは、イエスさまが満たされるために町に出かけたでしょうし、イエスさまが喜んでくださる姿を思い浮かべて食事を買って、急いで帰ってきたことでしょう。弟子たちは、自分たちが避けてきたサマリアの女性と話をしておられるイエスさまを見るのです。その女性が、町へと出て行った時、弟子たちは、「食事をどうぞ」と勧めます。弟子たちは、イエスさまを満たすものは、自分たちが買ってきたパンしかないと思っていますが、イエスさまは、「あなたがたが知らない食べ物がある」と仰います。それは、「わたしのお遣わしになった方の御心を行うことである」

弟子たちは、自分がやったこと、手元にあるもの、一時的なこの世のものしか見ていません。イエスさまは、神がなされること、遠くにあるもの、永遠のことを見ておられます。イエスさまは、弟子たちに「目を上げて見よ」と仰います。自分がやったこと、手元にあるもの、この世のものにとらわれているものであったとしても、目をあげれば、弟子たちもイエスさまが見ておられるものを見ることができます。

《祈り》

天の父なる神さま。わたしたちは、愚かな僕です。あなたに喜んでいただきたいと願い生きてきましたが、私たちは、自分がしたことの成果、手元にあるもの、一時的な充足を求めてしまいます。どうか、神がなされること、永遠のものに目を向けさせ、それを求めるものとしてください。あなたの救いの御心を表す器として霊の注ぎを与えてください。主の御名によって祈ります。アーメン。 (2020年11月15日橋本いずみ)