2020年11月22日主日礼拝説教

《 刈り入れの時のよろこび 》

ヨハネによる福音書   4:27〜42

イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは「刈り入れまでまだ四ヶ月もある」と言っているではないか。わたしは言っておく。目をあげて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。すでに、刈り入れる人は報酬を受け永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も共に喜ぶのである。そこで「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

さて、その町の多くのサマリア人は、「この方がわたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこでこのサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。          (ヨハネによる福音書4:31-38)

 種を蒔いて、しばらくすると芽が出て、伸びていき、花が咲き、実をつけます。イエスさまは、種まきと刈り入れのたとえを用いて、弟子たちの働きについて教えておられます。イエスさまの後について行った弟子たちには、労苦がありました。ヨハネによる福音書を最初に受け取った人たちも、苦しみがありました。彼らは、苦しみながらも、御言葉の種まきをして、その実りを待っていた。サマリアに食べ物を買いに行った弟子たちのように、イエスさまに喜んでいただきたい、忠実なしもべでありたいという願いが種まきの原動力になっていたでしょう。実りの収穫のときを待っていました。

 イエスさまは「目を上げて、畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」とおっしゃられています。弟子たちは、いまは悲しみの種まきの時だと思っていますが、イエスさまは、刈り入れの喜びがきていると告げています。

イエスさまは、弟子たちを永遠の命に至る実を刈り入れるために遣わされます。わたしたちに喜びをもたらす恵みは、わたしたち自身の涙ながらの労苦によって、与えられるものではなく、他の人々が労苦し、その労苦の実りにあずかるのです。

 「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)とイエスさまはおっしゃられました。

イエスさまは、わたしたちに収穫の喜びにともに与らせるために、わたしたちを招いてくださいました。イエスさまは、わたしたちに永遠の命をあたえるために、ご自分の命をささげてくださる救いです。

 「涙とともに種蒔く人は、喜びの歌とともに刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」(詩編126:5-6)

 サマリアでは、弟子たちの労苦ゆえに、人々が主イエスのもとにやって来たのではありませんでした。主が噂を聞いて集ってきた人たちのもとに、とどまり、主イエスの言葉を聞いて信じるようになりました。

《祈り》

天の父なる神さま。イエス・キリストによって、招かれあなたの後についていき、あなたに喜んでいただきたいと願い、いつか喜びの日がやってくると期待をし、惜しまず労苦してまいりました。けれども、今日、あなたがわたしたちに刈り入れの日の喜びを味わわせるために、ここに集めてくださったことを知らされました。どうか、永遠の命に至る実を集めるものとさせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2020年11月22日橋本いずみ)