2020年12月6日主日礼拝説教

《 主が来られる 》

イザヤ書   59:12〜20

主は正義の行われていないことを見られた。

それは主の御目に悪と映った。

主は人ひとりいないのを見

執り成す人がいないのを驚かれた。

主の救いは主の御腕により

主を支えるのは主の恵みの御業。

主は恵みの御業を鎧としてまとい

救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい

情熱を上着として身を包まれた。

主は人の業に従って報い

刃向かう者の仇に憤りを表し

敵に報い、島々に報いを返される。

西では主の御名を畏れ

東では主の栄光を畏れる。

主は激しい流れのように臨み、

主の霊がその上を吹く。

主は贖う者として、シオンに来られる。

ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると

主は言われる。         (イザヤ書59:15-20)

わたしたちは重い罪を担って、主の前にいます。

「御前にあるわたしたちの背きの罪は重い」とイザヤは語ります。神の民は、背きの罪を重く受け止め、種のみ前に立ちました。神に反逆し、神を裏切り、偽っている自らの姿を認めて、神の御前にいるのです。

 イスラエルは、バビロンの捕囚となります。これは、神の民にとっては、大きな出来事でした。礼拝する場所を失い、異文化の中に移住させられ、違う生活様式を求められました。自分たちの存在が揺るがされる出来事だったのです。

 捕囚期には、捕囚から解放されれば、以前のような生活に戻れると期待をしていましたが、捕囚から解放されても、悪と不正が横行しており、救いは実現しませんでした。救いが実現しないことへの焦燥感が神の民を覆っていました。

救いが実現しないのは、神の側に問題があるのではなくて、人の悪が神の救いを阻害している。人の悪の根は、背きの罪です。神から離れてしまっていること。神は、神と共にいるように民を選ばれたのに、神から遠く離れてしまっている。神が共におられるのに、あたかも神はそこにおられないかのように振る舞っている。神が怒りを露わにされているのに、それに気づかない。

神は、神のもとに立ち返るようにと与えそして奪われたのに、神の民は多くのものが与えられても、それが奪われても変わりませんでした。悪が横行し、執り成す人はいないのをご覧になって、主ご自身が自ら乗り出して来られました。主は、敵とたたかう戦士の姿で来られ、そして、勝利されます。「わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)

主は、わたしたちの内にあってわたしたちを苦しめ、外にあってわたしたちを脅かす悪と戦うために、おいでくださる救い主です。

《祈り》

天の父なる神さま。わたしたちは、自らの感情には、敏感であるのに、あなたの怒りには鈍感です。あなたの心とあなたのなさることを敏感に感じ取ることができるようにしてください。主が、わたしたちを罪と悪の支配と戦い、そこから救い出すためにおいでくださったことを感謝します。わたしたちが、そして、すべてあなたによって造られたものが、主の御名を畏れ、栄光を畏れるものとなりますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 (2020年12月6日橋本いずみ)