《 永遠の命を得るために 》
ヨハネによる福音書 3:1~21
神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じるものは裁かれない。信じないものはすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。悪を行うものは皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが明らかになるために。
(ヨハネによる福音書 3:16〜21)
神が愛しておられる世
この世は、神さまによって造られた世であるというだけでなく、この世は、神さまの愛の対象です。神さまは、わたしたちを愛し、永遠の命を与えるために、御子をこの世へと使わしてくださいました。主イエスは、言を認めようとしない世にやってこられた神の御子です。
光と闇が混在している世
光と闇が混在している世であって、世を神さまは愛しておられて、救われなければならず、この世には御子を信じるものが生み出されるのです。御子によって救われることを神は願っておられます。
御子によって救われるために
神さまが御子を世に遣わされたのは、裁くためではなく、救われるためです。「裁き」と「救い」裁きは、やがて終わりの時になされるものとしてではなくて、すでに来られた御子を受け入れ、信じるかです。御子が、私たちの救いのために世に来られたということを信じるものは救われるのです。
光を受け入れない闇
神の御子は、光として世に来られた救い主です。すべてのことを明るみ出す光。闇を光が照らしている。それが裁きになっています。
光を退けるのは、光よりも闇を、自分自身を愛しているからです。光が世に来たという奇跡によって生きようとせず、自分自身で生きようとしている。悪というのは、道徳的な悪いことをしているというのではなくて、神を抜きにして、自分自身で存在しようとすることです。人は、根底から闇に支配されているから、その業も悪い。人が悪い業を行うから悪いのではなく、闇の中にいるから、暗い業をなし、不信仰を決断するのです。
信仰が光を求めように、罪は光を避けます。「光を憎む」「光に来ない」というのは、御子によって神が現れてくださったということを受け入れないことの表れです。
神は、御子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るために、この世においでくださいました。
《祈り》
世を創造し、世を救へと導いてくださる神さま。あなたは、わたしたちの救いのために、愛する御子をこの世へと遣わしてくださいました。私たちは、あなたなしでは生きられません。主よ、わたしたちを憐れみ、生かしてください。わたしたちの行いを照らしてください。あなたの導きによってよきことをなさせてください。主の御名によってお祈りします。アーメン。
(2020年9月20日 橋本いずみ)