2021年1月17日 主日礼拝説教

《 元気になりたいか 》

ヨハネによる福音書   5:1〜18

その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門のそばに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていた。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、またもう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。

 (ヨハネ5:1-9)

再び、主イエスさまは、ユダヤ人たちの祭り(過越祭、五旬祭、仮庵祭)に合わせて、エルサレムへと戻ってこられた。ここで、一人の病人が癒されます。

この名も記されていない一人の病人の癒しの出来事によって、イエスさまと神さまの関係が明らかになりました。

病人の名前は、記されていませんし、彼がどのような病気であったのかも、記されていません。とにかく、彼は、38年もの間、病気で苦しんでおり、「ベトザタ」の池で癒されることに、一抹の希望を持っていたということです。しかし、彼の期待している癒しを受けるのがどれほど難しいことだったでしょうか。

大勢の病人や体の不自由な人たちが、回廊に横たわっていました。ベトザタ(めぐみの家)と呼ばれる池の水が動く時、一番最初にその池に入ったものが、癒されるというものでした。病人や体の不自由な人たちの望みが、ベトザタの池に向けられていました。辛抱強く、池を見つめ、最初に池に入る瞬間を待っていました。

この人には、助けてくれる人がおらず、何度挑戦しても、この池によって癒されることはありませんでした。

主イエスは、この助けてくれる者のいない一人の病人に目を止め、「良くなりたいか(健康になりたいか、元気になりたいか)」とまっすぐに尋ねます。しかし、この病人は、長く病気を患っていたからなのか、助けてくれる人がいなかったからなのか、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りて行くのです。」と卑屈さが滲み出た答え方をします。主はこの人のこの歪んだ応答の中にある願いを聞き、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。この人は、自分の足で立って床を担ぎ、歩き始めました。

大勢の病人や体の不自由な人たちの中で、主が癒されたのは、この人だけでした。この癒された人を、主イエスは、もう一度神殿で見つけてくださり、声をかけてくださり、「もう罪を犯してはならない」とこれからの生き方を教えてくださいました。

《祈り》

主イエス・キリストの父なる神さま。不自由な生活が強いられる中で、あなたがわたしたちに目を止めてくださいました。あなたの言葉は、いつもわたしたちの願いを的確に言い当て、まっすぐに問われます。しかし、わたしたちは、自分の状況に言い訳し、卑屈になり、歪んだ答えしかできません。あなたの言葉によって、わたしたちの歪んだ思いをまっすぐにしてください。しっかりと立たせ、あなたがわたしたちにしてくださったことを、感謝を持って受け止めるものとしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2021年1月17日橋本いずみ)