2021年1月24日 主日礼拝説教

《 わたしを癒した方 》

ヨハネによる福音書   5:1〜18

イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」しかし、その人は「わたしをいやしてくださった方が、「床を担いで歩きなさい」と言われたのです」と答えた。「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。しかし、病気を癒やしていただいた人は、それがだれであるかを知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に立ち去られたからである。その後、イエスは神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはならない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」この人は、立ち去って、自分を癒したのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。                (ヨハネ5:8-15)

わたしを良くしてくれたのはだれでしょうか?あらゆる面で健康にしたのはだれでしょうか?

わたしたちをあらゆる面で健康にするのは、神の御子です。体と魂は結びついていますし、心と体は切り離すことができません。体の健康が損なわれれば、心理的にも社会的にも、健康が損なわれていきます。信仰も揺るがされるということがあるでしょう。

ベトザタの池のそばにいた病人は、見ず知らずの人の言葉によって良くなって歩いて行きました。彼は他の人と違いました。それは、彼が床を担いでいたということです。安息日に、床を担ぐことはない。しかし、彼だけは、安息日に床を担いで歩いていました。

彼は癒されたとき、それが安息日の規定でどうなっているのか、周りの人から見てどう見えるのか、そんなことを考えていませんでした。ただ、自分を癒してくれた方に従い、床を担いで歩いていたのです。

主イエスは、かつての病人にもう一度出会ってくださって「もう罪を犯してはならない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」とおっしゃっています。この人は、罪の結果として病気になったわけではありません(9:3)が、彼にも他の人と同じように罪がありました(8:7-11)。罪とは、御子主イエス・キリストによって神を知ろうとはしないこと(16:9)。

一人の具体的な人の癒しによって、イエスさまは、ユダヤ人たちに、安息日がどのような日であり、神さまとご自身との関係を示されました。

 造られたものたちは、安息日に罪を赦していただいて、神さまとの間に和解を与えられます。世界の完成のためには、罪の赦しが必要です。主は、ただの罪人ではなく、赦された罪人にしてくださいます。

主の日ごとに、主イエス・キリストはわたしたちを癒して、健康にし、良くしてくださいます。

《祈り》

わたしたちを癒してくださる主イエス・キリストの父なる神さま。わたしたちの良くないところをあなたは知っておられます。そして、主イエスがわたしたちの良くないところを、良くしてくださることを信じ感謝します。あなたは一度赦してくださったことを、後から責めるようなことはなさいません。自分の失敗にこだわるのではなく、手放すことができるように助けてください。あなたが望んでいる場所にわたしたちを向かわせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2021年1月24日 橋本いずみ)