《 どうして見えるようになったのか 》
ヨハネによる福音書 9:13〜23
人々は前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には「その人は安息日を守らないから、神のもとから来たものではない」と言う者もいれば「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたと言うことだが、いったいお前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は、預言者です」と言った。(ヨハネ9:13-17)
生まれつき目の見えなかった人が、見えるようになりました。この人が目が見えるようになったのは、「あの方」のおかげです。この人は、「あの方」に触れていただきましたが、まだ「あの方」のことを見たことがありませんし、まだ、「あの方」がどこにいるのかも知りません。彼が知っているのは、「あの方」はイエスという名だということで、自分の目を見えるようにしてくださった「あの方」のことをまだ知らないのです。彼は、彼を取り巻くさまざまな人との対話の中で、自分にとって「あの方(イエス)」がなんであるのかを知っていくことになりました。
彼が目が見えるようになって最初に彼の周りにやってきたのは、「彼が物乞いであるのを前に見ていた人たち」彼の世話をしてくれる事もあった隣人たちです(8-12節)。彼らの問いによって、目が見えなかった人は、自分の目が見えるようになった次第を話します。人々の中に驚きを呼び起こしました。
次に出てくるのは、「ファリサイ派の人々」です。(13-34節)彼らは、権威者であり、律法に即した生活についての専門家です。ここで、安息日に癒しが行われたことが明らかになります。安息日に癒しが行われたと言うことで、本人に事情を説明させるのです。彼は、自分が目が見えるようになった次第を話します。
ファリサイ派の人たちの問いは、「どのようにして目が見えるようになったのか」から、「あなたの目を見えるようにした「あの方」はだれなのか」という問いへと変わっていきます。イエスさまに敵対する人たちの問いによって、彼は、自分の目を見えるようにしてくださった「あの方」について「預言者だ」(4:19)と語るようになります。さらにこの人は、「神のもとから来られた方」(33節)であるとの認識に至り、もう一度イエスさまにであっていただいて信じるようになりました(38節)。
一人の人の心の目が開かれていくときにも、取り巻く人たちとの対話によって、わたしの人生に関わっている「あの方」について徐々に分かってきます。それは、これまで自分を助けてくれた人たちだけでなく、かえって敵対する人や、過去の自分のことを最もよく知っていながら「もう大人ですから、本人に尋ねてください」と答えるような人たちを通して「あの方」のことを知り、信じるようにと変えられていくのです。両親の言葉は、冷たく聞こえるかもしれません。けれども、親が助けてやらなければ生きることのできない子どもではなく、自分の息子を一人の大人として両親は認めています。さらに、目を見えるようにしてくださった「あの方」が自分にとって、どのような方なのかを一層深く受け止めさせることになるのです。神の前に自立した大人は、孤独の中で神に自分の必要と助けを求めることができる人です。神は、イエス・キリストを通して、わたしたちの目を見えるようにし、信頼すべき方になってくださいました。
《祈り》天の父なる神さま。イエスさまがわたしたちの目を開いて光を与えてくださいました。今、あなたを仰ぎ見させてくださることに感謝します。周りにいる人からの問いや、好意的な人間関係だけでなく、敵意をもった関わりを通して、あなたがどのようなお方であるのかを認識させられてきました。主よ、喜びの時も悲しみの日にも、驚きをもってあなたを知り、信じるものとしてください。主の御名によって祈ります。
アーメン。(2021年10月10日 橋本いずみ)