2021年10月24日主日礼拝説教

《 わたしの目を開けてくださった》

ヨハネによる福音書 9:24〜34

さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしにはわかりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」…彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたのか、あなたがたがご存知ないとは、実に不思議です。あの方はわたしの目を開けてくださったのに。神は罪人のいうことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。(ヨハネ9:24-34)

イエスさまによって、生まれつき目の見えなかった人が、見えるようになりました。イエスさまに敵対している人たちが、この人に語りかけることによって、返って目が見えなかった人は、イエスさまへと近づけられました。

イエスさまを罪人だと決めつけている人には、どんなに真実を語ったとしても、その言葉は届きません。知っていると思っていることが、わかっている、見えていると思うことが、真実の言葉を聞こえなくさせるということがあるようです。目の見えなかった人と対話している人たちは、ファリサイ派の人たちです。彼らは、他の人たちよりも、神に喜ばれる道を選び取ってきたと自負していた人であり、しかし、彼らの中には分裂があり、自分たちの常識がイエスさまを罪人であると判断させていました。

彼らは、「神に栄光を帰しなさい」(ヨシュア7:10)と問い詰めます。この言葉は、神への服従と嘘偽りのない真実の告白を求めるときに、使われていた決まり文句で、新共同訳ではその意訳で「神の前で正直に答えなさい」と訳されています。彼は、「あの方が罪人であるかはわからない」と正直に答え、自分の身に起こったこと一つの真実を「それは見えなかったわたしが今は見えるということです。」と語るのです。このようにして、彼に神の業が示されました。

目の見えなかった人は、見えるようにしていただいて、イエスさまに敵対する人たちがもう一度「どうやって癒されたのか」と尋ねたとき、皮肉たっぷりに「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と答え「神は罪人の言うことはお聞きにならないと承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。」(箴言15:29)と。

目の見えなかった人は、自分の目を見えるようにしてくださったイエスさまから離れなかったので、イエスさまに敵対する人たちからはののしられて、追い出されました。

そして、イエスさまに敵対していた人は、自分たちの思いとは裏腹に、目の見えなかった人をイエスさまへと近づけることになり、神の業に奉仕することになりました。神の前に正直であることを通して、神に栄光を帰することになります。

《祈り》

天の父なる神さま。わたしたちは、どうしたらわたしたちを通して、あなたに栄光を帰することができるか考え祈りながら歩んできました。あなたは、わたしたちの心のうちにある思いをあなたはご存知です。神の前に正直に語るとき、あなたがわたしたちを真実に導いてくださると信じます。人々との対話を通して、また孤独の只中にあって、イエス・キリストがわたしたちと出会ってくださいますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2021年10月24日 橋本いずみ)