2021年10月3日 主日礼拝説教

《 神の業が現れるため 

ヨハネによる福音書 9:1〜12

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。私たちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム−『遣わされた者』という意味−の池に行って洗いなさい。」と言われた。そこで彼は言って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。(ヨハネ9:1-7)

弟子たちは、人の目が見えないことの原因を探りますが、イエスさまは「神の業がこの人に現れるため」と目的を語ります。

イエスさまは、神殿の境内を出て、通りすがりに、生まれつき目の見えない人をご覧になりました。そこには弟子たちが同行していたようです。弟子たちは、彼の目が見えないのには、何か原因がありその結果として、この人の目は見えないのであると考えて、イエスさまにその原因を「だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねています。

弟子たちは、現状の犯人探しをしようとする私たちとよく似ています。わたしたちは、不都合な状況や災いが起こったとき、何が原因で、こんなことになってしまったのかと考えます。多くの場合は、原因は複合的に関わり合って、その結果を生んでいいます。原因を探究することで、同じような境遇にある誰かを助けたり、次の被害を小さくすることができることがあります。しかし、原因がわかったところで、その人が救われるかと言えば、現状は何も変わりません。罪の結果であるという判断がなされたところで、この人の目は見えるようにはならないのです。

当時、目が見えなかったり、病気であったり、体に不自

由なことがある場合、それらは、罪の結果であると考えられていました。この目の見えない人にも、両親にも、罪があったはずです。しかし、イエスさまに尋ねている弟子やその他の目の見えていた人には罪がなく、この人やまたその両親に特別な罪があったのかと言われると、そうではありませんでした。

イエスさまが、弟子たちに「神の業が現れるためである」とその目的を明らかにして、この人はイエスさまが御手を持って触れてくださり、彼が主の言葉に従ってシロアムの池に行って洗った時に、彼の目は見えるようになりました。

肉の目に関しては、見えている人が多いと思いますが、心の目、霊の目に関しては、わたしたちは、皆、生まれつき目が見えない者です。どんなに幼い子どもでも、たくさんの経験を積んできた人であっても、誰一人として、イエスさまによって、目を開いていただかなければ、見えるようになりません。復活のイエスさまは、弟子たちに現れて、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開かれました(ルカ24:45)。心の目が開かれて、見えるようになるのは、真実な方であり、わたしたちが、真実な方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるということです。そして、この御子こそ真実の神、永遠の命であるということです。(1ヨハネ5:20)

《祈り》

天の父なる神さま。原因を探究して、わたしたちは自分を苦しめ、ともに生きる人たちを苦しめてきました。どうか、わたしたちを赦してください。主よ、わたしたちの心の目を開いてください。あなたが真実な神であり、御子イエス・キリストによって救いを成し遂げてくださることを信じさせてください。神さまの与えてくださる希望がどのようなものであるか、また私たちに将来与えられる栄光の輝きを悟らせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2021年10月3日 橋本いずみ)