《 主よ、信じます 》
ヨハネによる福音書 9:35〜41
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたはもうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」彼が「主よ、信じます」と言ってひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えないものは見えるようになり、見えるものは見えないようになる。」
イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々はこれらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
(ヨハネ9:35-41)
イエスさまは、あの目の見えなかった人のことをお聞きになりました。彼は、自分自身のことを、自分の目を見えるようにしてくださった方のことを、正直に話したがために、外に追い出されたのです。
人に対しても、神に対しても、正直でありたいと思いながら、正直であることは、すごく難しいと感じます。私たちの傲慢、侮り、恐れ、虚栄心、劣等感や優越感が、正直であることを阻みます。何が本当で、何が嘘なのか、自分でもわからなくなってしまっている。真実と偽りの区別がなくなってしまっている。
正直であることは、他者との関係においては、断絶をもたらすかもしれません。しかし、イエスさまは、断絶された人を探し出し、彼に出会ってくださいました。
「あなたは人の子を信じるか」とイエスさまとの信頼関係へと彼を招かれます。彼は、信じたかったのです。彼にとって、イエスさまは、自分を癒してくださったお方でしたが、それ以外のことは分かりませんでした。彼は、信じたいけれども、そのかたがどんな方なのかを知らないのです。
イエスさまは、その人の目の前に立っています。彼は、信頼すべき方をあそこにいるのか、こちらにいるのかと、探し回る必要はありませんでした。「信じたい」と彼が思った時、信頼すべきそのお方は、もう彼の目の前に立っていてくださいました。信頼すべき方を探し回る必要はありませんでした。なぜなら、イエスさまが探し出して、見つけてくださっていたからです。そして、もう対話を始めてくださっていました。
わたしたちは、信じたいと願い、イエスさまとの対話を始めています。この方の言葉を信用して、彼は、シロアムの池に行きました。彼はこの方に信頼して、正直に語りました。そして、彼は、今、信じてひざまずき、心の目が開かれて、イエスさまを仰ぎ見ているのです。
肉の目は見えていても、目の前でなされている神さまの御業を見えているものを見ようとしませんでした。この人がまったく罪の中に生まれたのだと蔑んでいた者たちは、イエスさまの言葉に憤っています。イエスさまは、わたしたちが見えないものを見えない、分からないものは分からないといえば、その罪を憐れみによって覆ってくださいます。
わたしたちの心の目を見えるようにしてくださるのは、イエスさまの他にはおられません。私たちは今日、「主よ、信じます」とそのお方の前に、ひざまずきます。
《祈り》
天の父なる神さま。わたしたちは、自分を守るために身につけた偽りの姿に苦しんでいます。正直に生きることができないことがわたしたちを苦しめています。主よ、憐んでください。わたしたちの嘆きの言葉に耳を傾けて、罪の中に生きる私たちを、あなたが見つけ出してください。主よ、あの目の見えなかった人をあなたが見つけ出して、声をかけてくださったように、主よ、わたしたちの前にあなたがいてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2021年10月31日 聖餐式執行 橋本いずみ)