2021年11月14日 主日礼拝説教

《 救いへの門 》

ヨハネによる福音書 10:7〜10

イエスは、また言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である、わたしを通って入るものは救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

(ヨハネ10:7-10)

「わたしは羊の門である」とイエスさまは、おっしゃいます。10章1〜5節で語られた「羊飼い」と「羊」の話では、何か暗示しているものがありそうですが、羊飼いが誰で、誰が羊であるということは、はっきりと言われていません。イエスさまはこのたとえを謎めいた言葉として、ファリサイ派の人たちに話されました。

それに対して、今日読んだ聖書の箇所7-10節では、「わたしは羊の門である」とはっきりと告げられています。イエスさまは、羊たちが、出たり入ったりする門であると言います。門である御子イエス・キリストが来てくださったので、羊たちは、その門を自由に行き来して、牧草を見つけることができるようになりました。そして、そのイエス・キリストが、来られた目的は、羊が命を受けるためです。

これ以前に、来たものたちは、皆、盗人、強盗であって、彼らは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりすると言います。イエスさま以前の者たちは、結局、滅びに至らせることしかできない者たちだったということです。

イエスさまは、確かに、来られました。イエスさまは、どのようにして、羊たちに命を豊かに与えられたでしょうか。それは、父なる神さまへの従順によってです。父なる神様への従順は、十字架の死に至るまでの従順であって、その御子イエス・キリストに、父なる神さまは、全世界を治める王としての権威をお与えになりました。

もし、イエスさま以外の羊飼いがいるのであれば、その人は、御子イエス・キリストへの従順によって、羊飼いになり、門を出入りする羊たちの世話をすることになるでしょう。

牧師というのは、「羊飼い」という意味です。わたしも羊飼いの端くれにさせていただきました。教会の中で、羊の世話をするように召された者たちは、一層深く大牧者であるイエス・キリストに聞き従うということに関心を向けなければならないと思います。

羊たちは、自分を取り去り、命を奪い、滅ぼしてしまう盗人や、強盗の言うことは聞かない。羊たちは、自分の力で命を得るための場所を見つけ出すことはできないけれども、滅びに向かって導く者たちに、ついて行くこともしないのです。

イエスさまは、「わたしは門である」とおっしゃいました。救いのための門となってくださって、この門は、開かれています。私たちは、囲いの中で安らいでいてもいいですし、羊飼いの声に導かれ、囲いの外に出かけて行って、牧草を見つけ出すこともできます。イエス・キリストを通って、自由に出入りしながら、生かされていくのです。

あなたが命を豊かに受けるために、キリストによって救いへの門は開かれています。

《祈り》

天の父なる神さま。イエス・キリストがこの世に来てくださり、十字架の死を遂げてくださり、今、わたしたちの王として、世界の王として、治めておられることを信じ感謝します。私たちが、誰かを養い、世話をするとき、キリストへの従順によって、その務めをなさせてください。私たちが、誰かに養われ、誰かの世話になるとき、その背後にあって、キリストの御手が働いていることを教えてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2021年11月14日  橋本いずみ)