2021年11月21日

《 良い羊飼い 羊のために命を捨てる》

ヨハネによる福音書 10:11〜18

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。−狼は羊を奪い、また追い散らす。−彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。誰もわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これはわたしが父から受けた掟である。            (ヨハネ10:11-18)

羊飼いと羊のたとえを話した(10:1-5)後、イエスさまはたとえ話で示されていることを「わたしは羊の門である」(10:7−10)と「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃられました。今日は、その二つ目、「わたしは良い羊飼いである」とイエスさまがおっしゃられたことを、思い巡らして御言葉を聞きたいと思います。

「わたしこそが、良い羊飼いである」とイエスさまが、おっしゃられる時、二つのことが言われています。一つは、「羊のために命を捨てる」ということです。羊飼いは、羊のことをいつも気にかけていて、心配していて、その命を羊が生きるために、差し出してくださるというのです。

二つ目は、「自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」ということです。互いに知っている関係です。しかも、その親密さは、父なる神さまと救いのために遣わされた御子イエス・キリストとの関係と、同じだというのです。この地上を歩んでおられる間、いつでも、イエス・キリストは、父の御心を行っておられました。父なる神さまが語られることを語り、父なる神さまがなされようとしていたことを行い、父なる神さまが、この世を救うそのために、御子はこの世に来られました。

旧約聖書エゼキエル書34章で一人の牧者(羊飼い)が立てられるということが、預言されていました。その牧者というは、神との関係においては、御心を行う僕であり、この世との関係で君主(王)となると言われていました。このような牧者が立てられることによって、本来ならば、野獣が行き交っているようなところ、荒地でも、森の中でも、どこにおいても安らぐことができるのです。

イエスさまは、「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃいます。イエスさまが、私たちのために命を差し出してくださいました。十字架に至るまでに、御子イエス・キリストは、従順であられましたが、命を捨てること、羊のためにその命のすべてを差し出すことが、御子の御心でもあったのです。

ここに、良い羊飼いである御子イエス・キリストの献身の姿を見ます。イエスさまは、いやいや十字架にかかったのではありません。羊が生きるそのために、ご自分の命を自由な意思を持って、献げてくださいました。御子イエス・キリストは、今日も、私たちが生きるために、すべてを差し出してくださっています。

《祈り》

天の父なる神さま。イエスさまが父なる神さまのふところにいて、その心の動きを知っていたように、わたしたちをイエスさまのことを知るものとされました。もっとわたしたちをあなたの心を敏感に感じ取ることができるようにしてください。そして、あなたの御胸のうちにある安心を味わわせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2021年11月21日  橋本いずみ)