《 望みて待つ人々 》
マタイによる福音書 1:1〜17
アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムは、イサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを…エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリアの妻によってソロモンをもうけ…ヤコブはマリアの夫ヨセフを設けた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
(マタイ1:1-17)
今日からアドヴェントです。先週の礼拝の後、大掃除をして、教会はきれいになりました。クリッペやツリーなどの飾りをして、いつもより少しステキになりました。教会の見えるところを整えながら、外見だけではなく、わたしたちは、主イエス・キリストの御降誕を思い起こし、主が再び来てくださることを思って、この時を過ごしていきます。
わたしたちが、この時代に待っている主は、既に来られた主であるということです。救い主は来てくださいました。今日読んだ聖書の箇所には、イエス・キリストの系図が記されています。わたしたちの救いを成し遂げてくださったイエス・キリストは、この系図の中で生まれました。
最初に名前が登場するのはアブラハムです。神さまは、このアブラハムに祝福の約束をしました(創世記12:1−3)。その後、ずらっと名前が出てきます。ここに挙げられている人たちは、立派な王さまもいますが、そうではない人つまり神さまの目から見てよくないことをした人もいます。さらには、旧約聖書に名前も残っていない人たちがいます。
この人たちが、繋いできた神さまの祝福の約束の中で、イエス・キリストは、お生まれになりました。イエスさまは、罪深い人たち、名前も残らず地に埋もれてしまった人たちの中にお生まれくださった救い主です。
聖書には、色々な人が出てきます。神さまからの祝福の約束をいただいたアブラハムは、信仰の父と呼ばれるようになりますが、祝福の約束をいただいた後、アブラハムは、エジプトへ降ったときに自分の妻を妹だと嘘をついています。
ダビデはイスラエルの王さまとして知られていますが、彼には、バト・シェバを夫から奪いました。
一見、立派に見える人も、明らかに悪いことを重ねているように見える人でも、最初から、「悪いことをする」ということの目的のために生きているわけではなく、良かれと思うことをしているうちに、自分のやりたいことが大きくなって、見えなくなって、いつの間にか、人を傷つけてしまうのです。そして、最終的には、神さまを傷つけ、他の人を傷つけ、自分も傷ついてしまう。イエス・キリストの系図に出てくる人たちは、このような悲しみの中に生きた人たちです。そして、その人たちが、神さまが与えてくださる祝福の担い手となっていました。
イエスさまは、たくさんの失敗と悲しみの中で救いが実現することを望んでいた人たちのために、お生まれくださった救い主です。そして、わたしたちは、この救いの系図の中に入れられています。
《祈り》
アドヴェントの主イエス・キリストの父なる神さま。イエスさまは、神さまを傷つけ、人を傷つけ、自分も傷ついて悲しみの中で生きた人たちの中に生まれてくださいました。イエスさまが、わたしたちの悲しみと苦しみを担い、この世界の悲しみと苦しみを担ってくださることを信じます。主よ、聖霊によってわたしたちの心を清めてください。イエス・キリストの似姿にわたしたちを造り変えてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2021年11月28日 アドヴェント第一主日 橋本いずみ)