2021年12月19日 主日礼拝説教

《 ベツレヘムを目指すすべての人へ 》

ルカによる福音書 2:1~7

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

(ルカ2:1−7)

イエス・キリストがお生まれになった時代、皇帝の勅令は、絶対的なものでした。住民登録をせよとの勅令により、皆が、住民登録をするために、旅立った。すべての人が、皇帝の勅令に従って、住民登録をするために、「自分の町」へと向かいました。

ヨセフにとっての「自分の町」は、「ベツレヘム」でした。ヨセフが、住んでいた町は、ガリラヤの町ナザレです。そこから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へと上って行きました。ヨセフにとって、働きの場、生活の場は、ナザレだったのですが、働きを休んで、ナザレでの生活から離れて、自分の町ベツレヘムへと向かいました。その距離は、145キロほど、急いで行って帰っても10日はかかる旅であったと思います。そして、その旅に、いいなずけのマリアも一緒に連れて行ったのです。速さだけを求めるのであれば、一人で行く方が良いに決まっている、効率だけで考えるなら一人の方がいい旅なのですが、ヨセフは身重のマリアと一緒に歩いて行ったのです。強いられた旅に、ヨセフはマリアと一緒に歩いていきます。ヨセフにとって、それがマリアを受けれたということ、この人と一緒に歩んでいくということの表れでした。ゆっくりとマリアと一緒に歩いていく、その旅の中で、自分に現れた天使の言葉を思い巡らし、マリアに宿った命について思い巡らしたことでしょう。

ベツレヘムは、ヨセフにとって自分の町、故郷の町でした。自分の名が記されるところ、自分がここにいると示さなければならないところは、働きの場、生活の場であるナザレではなくて、ベツレヘムだったのです。ベツレヘムは、ヨセフにとって、自分の居場所があるところのはずでした。ヨセフは、自分の町に帰りました。けれども、仲間達に迎えられるわけでも、親戚に迎えられるわけでもない。自分の居場所はそこにはありませんでした。

ベツレヘムは、ダビデの町。ダビデが預言者サムエルによって油を注がれた町です。(サムエル記上16:1、17:12)ダビデは、ベツレヘムの生まれで、そこで油を注がれ、やがて王として建てられていく。サムエルがやってきたことに対して、不安げに出迎えて人に「平和なことです」とサムエルは答えています。

平和なことのために、サムエルは、ベツレヘムでダビデに油を注ぎました。そして、その町が、キリストの誕生の町になるのです。

救い主と人々が、初めて会うところは、ベツレヘムです。ヨセフとマリアも、ベツレヘムへと向かいました。羊飼いも、天使の知らせを聞いて、ベツレヘムへ行きます。

ベツレヘム、それは、救い主がお生まれになると約束された町。平和なことが始まる町です。イエス・キリストがおられるところに、平和がもたらされます。イエス・キリストがおられるところに、私たちの居場所があります。

《祈り》

クリスマスの主イエス・キリストの父なる神さま。救い主との出会いの場へとわたしたちを導いてくださり、ありがとうございます。イエスさまが、この世に生まれてくださって、あなたの前にわたしたちの居場所をつくってくださり、感謝します。主よ、平和なことのために、わたしたちを遣わしてください。イエスさまが王であることをあらわすために私たちを遣わしてください。

主の御名によってお祈りします。アーメン。(2021年12月19日 クリスマス 橋本いずみ)