2021年2月14日主日礼拝

《 愛はすべてを完成させるきずな 

コロサイの信徒への手紙   3:1〜15

パウロが、教会にあてて手紙を書く大きな理由の一つは、教会の中に入り込んでくる間違った教えとの戦いのためでした。

神のひとり子イエス・キリストの十字架の死とご復活によって顕された神様の愛に、物足りなさを感じ、そこに様々な余分な付属物をつけ加えようとする教えや誘惑が、絶えず教会の中に入り込もうとしていました。そのような教えや誘惑の奥底には、2000年前の世界であれ、現代であれ、愛をもとめずにはいられない人間の生の姿、すなわち愛の問題が横たわっています。愛の問題に対して、パウロは、手紙の冒頭の挨拶文から、クリスチャンの生命線といってもよい3つの事柄についてストレートに語っています。それは、信仰、希望、愛です。

信仰とは、イエス・キリストの懐に抱かれて、そこに安心してとどまり続ける信頼のことです。そして、愛の交わりとは、神様によって呼び出された者同士が互いに仕えあうことです。その愛は人間的な好き嫌いの感情や、仲間意識の愛ではなく、天に蓄えられている希望に基づく愛です。

あなたがたのために天に蓄えられている希望(1章5節)とパウロは語ります。その希望とは、一口で言うのなら、本日の聖書箇所の3章13節にあるように、主がこの私の罪をゆるしてくださったのだという事実です。この希望こそが、教会の交わりに愛がうまれる原動力です。パウロは、 洗礼を授けられ、キリストと共によみがえった人間がどのような人生を歩むことになるのか、ということを12節、13節でこう語っています。「憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」さらに14節では、「これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。愛はすべてを完成させるきづなです。」と語り掛けています。

この完成とは、イエス・キリストが十字架上で息をひきとられるとき「成し遂げられた」と言われた時と同じ言葉です。 イエス・キリストの十字架で完成された神様の愛が、私たちの愛の交わりの一切を束ねて一つのものとしていただき、救いの完成へと導いてくださいます。それが、私たちの教会の姿です。

「わたしたちはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリントの信徒への手紙一 12章27節)自分がいくらこのからだからぬけたいと思っても、もはや自分は自分のものではありません。神様が備えてくださった兄弟姉妹の祈りが、常に身近にあるからです。

 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(15節)

イエス・キリストが再びきてくださる終わりの日、私たちのいのちもまた、キリスト・イエスの栄光のうちに明らかになります。(4節参照)黙示録21章でヨハネが見た幻にあるように、新しい天と新しい地が現れる終わりの日、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さるのです。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。この終わりの日の希望は、みなさんの心を支配するキリストの平和によって実現することになる、いやすでに実現しているのです。わたしたちは、このキリストの平和に生かされるために、今日もまた礼拝に招かれて一つとされています。このキリストの平和から、私たちの祈りは生まれてきます。この祈りこそ、神様との愛のきずな、すべてを完成へと導く愛のきずなです。

(2021年2月14日大阪教会伝道師 久保田 拓志 )