2021年2月28日主日礼拝

《 聖書はイエス・キリストを証しする

ヨハネによる福音書   5:31〜40

もし、わたしが自分自身いついて証しをするなら、その証しは真実ではない。…しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。またわたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない、またあなたたちは、自分の内に父の言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。(ヨハネ5:31〜40)

聖書は、御子イエス・キリストを証しするものです。ここは、キリストによってわたしたちに与えられる救いの計画が記されていますし、御言葉によって、わたしたちは神を知り、命をいただきます。

安息日の癒しの出来事の後(5:1-9)、主イエス・キリストは、安息日を破るだけでなく、自分を神と等しくしているということで(5:18)、狙われるようになりました。イエスさまが、神の御子であり、神と等しいものであるということの証しについて、語られます。自己証言は、有効性がないと考えられていました。イエスさまが、神の御子であられるということは、その言葉を聞き、業を見て、信頼するしかないのですが、その前に、洗礼者ヨハネを思い起こさせます(1:6-10、19-35、3:22-30)。確かに、洗礼者ヨハネは、主イエス・キリストを、まことの光、神の子、神の小羊と証言をしていました。人々は、この証しを聞いていました。

しかし、洗礼者ヨハネの証しは、ともし火のようなもので、しばらくの間は照らしてくれますが、やがて消えてしまうものでした。洗礼者ヨハネの証しがなくなったとしても、父なる神ご自身が、主イエス・キリストがまことに神の御子であられることを、その業によって明らかにしてくださいます。

安息日に主イエス・キリストは、御言葉をもって一人の病人を癒し、神の御前に進み出て礼拝するところへと向かわせました。

神さまは、わたしたちをよく知っておられるでしょうけれども、わたしたちは、まだ世界を創造し、わたしたちをこの世に生み出した父なる神さまを見たことがありませんし、その声を聞いたことがありません。しかし、父なる神さまは、イエス・キリストを通して、わたしたちに語りかけ、聖霊を与えて教会を導いておられます。

わたしたちが、聖書を読むのは、神は、イエス・キリストを通してわたしたちの救いを実現し、命を与えてくださると信じているからです。

【祈り】

天の父なる神さま。あなたからは、この世界のことがよく見えているでしょう。わたしたちの声がよく聞こえているでしょう。けれども、わたしたちには、あなたのお姿が見えませんし、あなたの声が聞こえません。主よ、私たちを憐れんで、聖霊を与え、御子イエス・キリストを思い起こさせてください。聖書に証しされているイエス・キリストがわたしたちの救いのために、あらゆることをなしてくださることを信じさせてください。主の御名によって、お祈りします。アーメン。

(2021年2月28日 橋本 いずみ )