《 教会 御子イエスが一緒にお座りになる》
ヨハネによる福音書 6:1〜15
その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。(ヨハネ6:1〜6)
西宮一麦教会は、3月17日で教会創立74周年を迎えます。主イエス・キリスト信じるものを集め、福音の伝道が進められて来たことを感謝し、主の御名をほめたたえます。
イエス・キリストの後には、多くの人々がついて行きました。イエスさまが、湖を渡って行けば、人々もその後を追って湖を渡り、イエスさまが山に登れば、人々もその後を追いました。
イエスさまは、その行われたしるし(神がともにおられなければ、できない不思議な業)によって、群衆に期待され、追われる日々を過ごしていたわけですが、その中で、山に登りました。この山が、どの山なのかはわかりませんが、5章で登場したモーセは、山で律法を与えられましたし(出エジプト20章)、4章のサマリアの女は、「わたしたちの先祖はこの山で礼拝した」(4.20)と言っています。神さまの御言葉をいただき、栄光を仰ぎ見る特別な場所であったと考えられます。マタイによる福音書では、イエスさまは、山に登り、腰を下ろして弟子たちに教えています(マタイ6.1)。
イエスさまは、山に登って、弟子たちと一緒に座っておられます。そして、ご自分を追いかけてくる大勢の人々をご覧になります。そして、何かを行おうとしておられました。弟子たちは、イエスさまが何をするのかを知りませんでしたが、イエスさまは、弟子たちとともに
座っているときに、自分がこれからすることを知っておられました。
フィリポは、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろか」とのイエスさまの問いに、「めいめいが少しずつ食べるにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と計算して答えますが、イエスさまが、この群衆を養おうとしておられるその願いは、実現不可能だと判断していますし、アンデレは、「何の役にも立たないでしょう」と持ち合わせているものが不足していることを見ています。弟子たちが、イエスさまのそばに座り、与えられたものだけに目を留めて、計算して、判断しているとき、イエスさまは、感謝を捧げるのです。イエスさまは、あらゆることを可能とする父なる神さまを見上げています。弟子たちにはなく、イエスさまにあるものは、父を仰ぐという視点です。
イエスさまは、この世を愛するがゆえに遣わされた神の御子であり、世が救われることを願っておられます。
主は、主イエス・キリストをとおして、わたしたちは、父なる神を仰ぐこの視点を与えられました。主が私たちと一緒に座ってくださいました。わたしたちも全能の父を仰ぎ見ます。
【祈り】
教会のかしらなる主イエス・キリストの父なる神さま。西宮一麦教会創立74周年を迎えてあなたの御名をほめたたえます。ここで礼拝がささげられる時、主がともにおすわりくださり、神さまを見上げるようにと導き続けてくださったことを感謝します。主の言葉を通して、イエス・キリストの願っておられることを私たちも知ることができるようにしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2021年3月7日 創立記念礼拝 橋本 いずみ )