2021年3月28日

《 十字架につけられ、王となる 

ヨハネによる福音書6:14-15,19:17-20

そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさに、この人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは人々が来て、自分を王とするために連れて行こうとしているのを知り、一人で山に退かれた。(ヨハネ6:14〜15)

イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタというところへ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒に他の二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それはヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。(ヨハネ19:17〜20)

わたしたちを治め、わたしたちを守り、わたしたちを良いもので満たしてくださる王は、御子イエス・キリストです。わたしたちの王であられる神の御子イエス・キリストは、自ら十字架を背負い、わたしたちの王となられました。

 イエスさまが、五つのパンと二匹の魚で、大勢の群衆を養われた時、人々は、「この人こそ、世に来られる預言者だ」と言いました。かつて神さまがモーセを立てて、イスラエルの民を養い導いたように、この人が、養い導いてくださると期待をしました。(申命記18.15,18)そして、王とするために連れて行こうとしました。群衆を養われた神の御子イエス・キリストは確かに、王となられるお方なのですが、群衆が願っているような仕方で王となるお方ではありません。人々は、食べ物を与え、空腹を満たしてくださる人を王としようとしました。人々は、空腹を満たすものが賜物であって、それを与える方ご自身が賜物であるということに気づいていないのです。

イエスさまは、人々が自分を王にしようと連れて行こうとするときには、一人で山に退き、神との親しい交わりに、身を置きます。主イエス・キリストは、この世で、人々を養うことによって、神の力を明らかに示されます。そして、終わりの時の支配者は、ご自分であられることを示されるのです。わたしたちの願いによって、わたしたちは救われたのではありません。わたしたちの願いを超えて、神の御心によって、わたしたちは、救われ、生かされ、養われています。神の御子イエス・キリストは、神の願いを実現するために、自ら十字架を背負われます。

ピラトは、繰り返し「あなたたちの王だ」と言い、罪状書きにも「ユダヤ人の王」と書き記しました。当のユダヤ人たちは、神が王として与えてくださったお方を差し置いて、時の支配者であった「皇帝のほかには王はない」と言います。私たちのために自ら進んで十字架を背負い、命を捧げてくださる方が私たちの王です。このお方が、わたしの王であり、私たち教会の王であり、世界の王であります。

【祈り】

十字架の主イエス・キリストの父なる神さま。イエス・キリストご自身をあなたからの賜物としてうけとることができるようにしてください。わたしたちは、この世のものに惑わされ、あなたご自身ではなくあなたが生み出すものに魅力を感じていました。主よ、キリストの十字架によってしか救われることのなかった自らの罪深さと愚かさを覚え、あなたの憐れみを乞い願います。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2021年3月28日棕梠の主日 橋本 いずみ )