《 世の光 》
ヨハネによる福音書 8:12〜20
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」仮庵祭に引き続き、神殿でイエスさまがお語りになった言葉です。
イエスさまは、フィリポに出会って「わたしに従いなさい」と言われました(ヨハネ1.43)。そして、フィリポは、ナタナエルを主イエスのところへと招くことになりました。他にも、イエスさまは、徴税人レビに(ルカ5.27)、皆に(ルカ9.23)、別の人(ルカ9.23)、金持ちの若者に(ルカ18.22)、ペトロに(ヨハネ21.19)、愛する弟子(ヨハネ21.22)に、「従いなさい」と声をかけて招いておられます。イエスさまの招きに従って、何もかも捨てて、すべてを捨てて、従った者たちがいました(ルカ5.11,27)。
何もかも捨ててイエスさまに従ったと言われる弟子たちは、いつでもイエスさまのことを理解していたわけではありませんし、イエスさまを信頼してまったく恐れなくなったというわけではありません。恐れや不安から、まったく自由にされて、万事順調に進んだというわけでもありません。
イエスさまに従った者たちも、世に生きるときに、苦しみがあり、悲しみがあり、悪口を浴びせられることがあり、困難な状況を歩むのです。
「世」というのは、言によってできたにもかかわらず、それを認めないところです。世を愛するがゆえに、父なる神さまは御子をお遣わしになりました。御子は、一時、この世に身をおかれますが、世に属することなく、再び、世を離れて父のもとへと帰って行かれます。
弟子たちは、世から選びたされた人たちであり、選ばれた者たちには、「世」は苦難があるところです。
イエスさまは、「わたしは世の光である」(8.12、9.5、11.9)とおっしゃられます。
旧約聖書の預言者イザヤは、神の僕が「光」であると告げています(イザヤ42.6、49.6)。
イエスさまは、地の果てにまで救いをもたらす「世の光」であり、囚われ人を枷から、闇に住む人を牢獄から救い出してくださる「世の光」、神の民を立ち上がらせ、神の栄光を見ることのできない目を開き、従うことことを妨げるあらゆる物を解き放ち、父なる神のもとへと連れ帰ってくださる「世の光」です。
イエスさまの言葉を認めようとしない世を歩んでいくことには、苦難がついてくることでしょう。しかし、その道が、どんなに曲がりくねっていても、歩きにくい道であったとしても、そこで痛い目に遭ったり、立ち止まっていたとしても、その道は、光であるイエスさまに照らされています。
イエスさまに従う者には、命の光が与えられています。イエスさまは、世を照らしてくださり、この世を歩む私たちに、命の光を持たせてくださいます。
《祈り》
世の光なるイエス・キリストの父なる神さま。あなたが造られたこの世界を、御子キリストが今日も照らしていてくださることを信じ感謝します。わたしたちの苦難も、わたしたちの悲しみも喜びも、イエスさまの光に照らされています。わたしたちが、イエスさまに従うことを妨げるあらゆるものを退けてください。命の光を携えて、歩ませてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2021年8月15日橋本いずみ)