2021年9月12日 主日礼拝説教

《 あなたたちは自由になる 

ヨハネによる福音書 8:31〜38

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ 8:31)

皆さんは自分は自由だと思うでしょうか?イエスさまの言葉を聞いた人-イエスさまの言葉を聞いて信じたユダヤ人たちは、「今まで、奴隷になったことはありません」と答えており、自分たちは自由だと思っていましたが、神の御子イエスさまから見れば、これから真理を知って自由になる人たちでした。彼らは、イエスさまの言葉を聞いて、感動し、それを受け入れ、信じた人たちであり、これから、本当の弟子になっていく人たち、真理を知って自由になる人です。

彼らのアイデンティティは、「アブラハムの子孫である」ということで、律法のもとで自由なものたちだと思っていました。しかし、イエスさまは、自由な者ではなく、彼らは罪の奴隷となっていると見ています。罪を犯しているというのは、道徳的な過ちのことではなく、イエス・キリストによって示された神の現実を見ようとも聞こうともしないことです。神が世の救いのために、御子を遣わされたという事実(ヨハネ3:16)に信頼を寄せることよりも、「アブラハムの子孫である」と自ら誇っていることが、罪の奴隷であるとイエスさまは見ておられるのです。アブラハムの子孫であるということが彼らのプライドだった。律法を保持しているということが、彼らのプライドだった。

イエスさまを信じたはずの彼らであり、一見、主イエスの弟子になった人たちでしたが、自分の誇りから自由になれない。この世を支配している原則の中で、自分を誇り、自分の身分に固執し、自分と隣人を裁いている。イエスさまを信じることができない。自分の誇りを捨てることができない。これは、自由なものの姿ではありません。

しかし、イエスさまは、身分に固執せず、受け入れがたいものを受け入れ、自分の命を捨てることもできる。本当に自由なのは、イエスさまです。

わたしたちは、自由な時間があり、ある程度自由に使えるお金があり、行きたいところに行くことができることを考えると、自由であるということができるかもしれません。しかし、わずかの時でも寿命を伸ばすことなど、自分ではできないのに、命のことを心配し、何を食べようか、何を飲もうか、思い煩っています。あるいは、自分の築いてきたものや経験にプライドがあり、結局、この世のことで頭も心もいっぱいになって、それに支配されてしまっています。

イエスさまは、言いました。「真理があなたたちを自由にする」と。私たちが、手に入れたいものを手に入れることができても、明日、命が終わりになっても10年後や20年後まで長生きしても、社会で成功を収めてもそうでなくても、私たちが、キリストによって神の子されるという事実は変わりません。

わたしたちを、自由にするのは、真理です。神が、このどうしようもない私と世界のために、愛する御子をお遣わしになられたこの真理が、わたしたちを自由にします。

《祈り》天の父なる神さま。奴隷であったわたしたちをイエスさまによってあなたの子としてくださり、日々、受け入れてくださることに感謝します。あなたの子とされたのに、まだ、罪の奴隷のような姿で生きようとしています。まだ、奴隷の時に築いたプライドが捨てられずにいます。真理によって、わたしたちを自由にしてください。あらゆる心配からわたしたちを自由にしてください。わたしたちよりも、わたしたちを深く知ってくださっているあなたに、道であり、真理であり、命であると言われる主イエス・キリストに、今、わたしたちの心配事を委ねます。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2021年9月12日 橋本いずみ)