そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。…」 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。 (ルカ7:6-10)
ある百人隊長に大切にされていた部下が、病気になり、まさに死の時を迎えようとしていました。百人隊長はイエス様にぜひ来てもらおうと思います。あと少しで百人隊長の家に着く、というところでした。何やらイエス様に言付けを預かってきたようです。「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。」彼は、もうすぐそこに来ているイエス様に会う資格が、自分にはないと思ったのです。イエス様を屋根の下にお迎えすることができるような、十分な生き方をしていないと、思ったのです。イエス様を迎えるのに、自分は相応しいものではない。イエス様にお会いする価値が、自分にはない、と百人隊長は思ったのです。
しかし問題は解決していません。彼の部下は、まだ死の間際で苦しんでいるのです。自分はイエス様をお迎えできないけれど、しかし部下を助けることができるお方はイエス様だけです。百人隊長の力では、部下を救うことはできません。
そこで彼は、イエス様の言葉により頼む他ないと思いました。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」百人隊長はイエス様の言葉に全てを委ね、信じることにしました。この世界には、実際に本当だなと思える言葉と、そうは思えない言葉と、あると思います。何事も三日坊主で長続きしない人が、今度こそ続けてみせる!と何かを宣言しても、私たちは、また口先ばかりだと思って、その人の言葉を信じないでしょう。その人の言葉を信じる、ということは同時に、その人の言葉が必ず実現すると信じる、ということです。
百人隊長は、イエス様の言葉には、死の現実を変える力があると信じたのです。神様の前に立つことが、自分にはできないと思うかもしれません。神様に愛される生き方ができていないと思うかもしれません。大切な人が苦しんだり、悲しんだりしているのを見ながら、何もできない自分を不甲斐なく、無力に思うかもしれません。世界がこのまま変わらず、どんどん悪い方向へ進んでいくように思えるかもしれません。でも、だからこそ、私たちは神様の言葉を求めたいと思います。私たちにはできないことでも、神様にはお出来になるからです。
《祈り》天にいらっしゃいます父なる神様、私たちはイエス様を自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。あなたの御前に立つとき、先週してしまった過ちや心の中に抱いた汚い感情、罪深い自分の姿を思い起こします。自分で自分を律して、あなたの御前に立つのに相応しいものにすることができません。だから、あなたの言葉をください。あなたの言葉は、罪深い私たちを、苦しんでいる隣人を、この世界を、変える力を持っています。あなたがおっしゃったことは必ず実現すると信じます。あなたの言葉によって変えられ、あなたの言葉によって真に生かされる信仰の歩みへと、導いてください。アーメン。
(2021年9月5日 高橋幸 神学生)