《 御手のうちから奪われない 》
ヨハネによる福音書10:22~39
そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは神殿の境内で、ソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もし、メシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。」しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」
ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。…そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去っていかれた。(ヨハネ10:22-39)
神殿奉献祭は、ギリシアの偶像礼拝によって汚された神殿を再び聖別するために行われた8日間にわたる祭りでした。ユダヤ教ではハヌカとして今でも祝っています。この祭りの間、それぞれの家の前で火が灯されていたことから、光の祭りとも言われています。季節が冬であるということを告げているのは、闇が深まっているということを象徴的に表しているのかもしれません。神殿の再聖別を記念する祭りの時、ユダヤ人たちはイエスさまを取り囲み、問いただし、捕らえて殺そうとしますが、それは実現しませんでした。
ユダヤ人たちは、「いつまで気を揉ませるきか」と言ってイエスさまに怒りをぶつけています。「いつまでわたしたちの魂を持ち上げたままおろさないのか」と問うています。ユダヤ人たちは、イエスさまを受け入れず、対立していますが、自分たちの魂がこのお方によって、持ち上げられていると感じていました。イエスさまの存在が、によって彼らは、動揺させられていたのです。
しかし、彼らが動揺し、混乱しているのは、イエスさまのせいではありません。彼らが、イエスさまのお語りになっていることを信じようとはせず、聞こうとしないからです。イエスさまの語ることを信じない、聞こうとしないことが、彼らを不安定にさせ、混乱させていたのです。
イエスさまは、ここでもう一度、「わたしの羊」の話をされます。わたしの羊は、わたしに従う。わたしの羊に永遠の命を与え、わたしの羊は、決して滅びず、だれもわたしの手から奪うことはできないと。イエスさまの羊となるものたちは、イエスさまの手の中に置かれています。どんなにイエスさまに強く対抗するものがあったとしても、どんなにイエスさまを無理矢理、消し去ろうとする力が働いたとしても、父なる神さまの手のうちから、イエスさまが奪われることがないように、イエスさまの羊もイエスさまの御手の内から奪われることがないとおっしゃいます。
イエスさまは、取り囲まれて、石で打ち殺されようとされ、捕らえられようとしていますが、彼らの手を逃れて去って行かれました。イエスさまは、わたしたちが捕らえることによって、私たちが平安を得ることができるのではなく、イエスさまがわたしたちを御手の内に捕らえてくださることによって(フィリピ3:12)、わたしたちは滅びから救われ、永遠の命を与えられます。
《祈り》
主イエス・キリストの父なる神さま。イエスさまと出会うことによって、動揺し混乱している人たちがいました。私たちが動揺し混乱する時、イエスさまがお語りになっていることを聞き分け、信じることができるように、聖霊によって導いてください。さまざまな力に揺さぶられる時、イエスさまが、わたしたちを捉えて離さないでいてくださいますので、わたしたちは決して滅びません。永遠の命を受けるまで、わたしたちを守っていてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2022年1月16日 橋本いずみ)