2022年1月30日 主日礼拝説教

《 この病気は神の栄光のため 

ヨハネによる福音書11:1~16

ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じところに滞在された。(ヨハネ11:1-6)

イエスさまと親しい関係にあった三人の兄弟がいました。マルタとマリアとラザロです。イエスさまは、ラザロのことを「わたしたちの友」と呼んでおられて、イエスさまと弟子たちを、家に招くほど親しい関係にありました(ルカ10:38-42)。

ラザロの病を通して、それぞれが死について思い巡らすことになりました。そして、愛する者ラザロの病をとおして、イエスさまは栄光をお示しになります。

ラザロの病を知って、なおイエスさまが、そこに二日間滞在されたのは、神の栄光が現されて、弟子たちが信じるようになるためでした。イエスさまは、死と隣り合わせの病にかかり、死に向かっていることを知っても、すぐには動き出しませんでした。それは、神の栄光が現れるためです。人間の力がまったく及ばなくなるときを待ったのです。

この兄弟が住んでいたベタニアは、ユダヤ地方にあり、エルサレムから3キロほどのところでした。イエスさまは、エルサレムで撃ち殺されそうになりましたが、そこから逃れてヨルダンの東に来ていました。イエスさまは、ユダヤ人たちがご自分を殺そうと機会を狙っているのを知っており、弟子たちも、そのことを知っています。やっとの思いで渦中から逃れてきた人が、もう一度渦中に戻っていくことで、イエスさまがユダヤに行くことは、殺されに行くようなものでした。ですから、トマスは、イエスさまが「ユダヤに行こう」と言った後、「われわれも一緒に死のうではないか」と言っているのです。弟子たちも決死の覚悟で、イエスさまと共に愛する友を看取るためにユダヤに行くのです。

イエスさまは、弟子たちが信じるようになるために、二日間待つのです。病を治すことができるお方が、何もせずに、この二日間を待つ。愛する者が死んでいくのをじっと待つ、マルタとマリアがラザロの病に死によって、どれほど苦しみ悲しむか痛いほど分かっている方が、すぐに動き出さずに、死の時を待っています。

ラザロの病は、死へと向かっていく病です。人は、死に直面して、結局のところ何もできない。自分の命をわずかでも伸ばすことはできません。イエスさまは、主に従う弟子たちに、人間の力の及ばぬ現実をしっかりと受け止めさせて、そして、死をこえる神の力を示し、神の栄光をあらわそうとされます。

弟子たちは、ラザロは、ただ眠っているだけだと思っていますが、イエスさまは、二日の間に彼が死んだこと、神と切り離され、愛する者たちと切り離されていることを知っています。御子イエス・キリストは、死を超えて働く力をもっていることを示すために、愛するものが死に向かっていっていることを、悲しみを深くしつつも、主は時を待ちます。それは、神の栄光が鮮やかに示されるためです。

《祈り》

主イエス・キリストの父なる神さま。主は愛する者にその力を示し、栄光をお受けになられます。わたしたちは、自分の困難な状況には、自分の願った通りに、すぐに答えて欲しいと思いますが、主は、神の栄光が鮮やかに示されるために、時を待ち、時がくればその御力を発揮し、働かれます。主よ、死と滅びに向かっていくように感じる中で、主が栄光を示されることを信じて、わたしたちに待つことを教えてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2022年1月30日 橋本いずみ)