2022年2月20日 主日礼拝

《 わたしを信じるものは死んでも生きる 》

ヨハネによる福音書11:17~27

さて、イエスが行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアは、エルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは、家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものは誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(ヨハネ11:17-27)

ラザロの死を知ったイエスさまと弟子たちは、彼の住んでいた町ベタニアに行きました。イエスさまがこの村に行く目的は、「わたしたちの友ラザロを起こしに行く」(11節)ことでした。ラザロの死は、その家族と弟子たち、村の人々にも影響を与えました。イエスさまがベタニアに到着した時、ラザロは既に葬られてから四日経っていて病を癒すには手遅れでした。マルタとマリアが期待したように、イエスさまがずっと共にいていくださって、ラザロの病が癒やされるということはなかったのです。

マルタは、イエスさまが来られたと聞いて、マルタの方からも、近寄って行きます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言いながらも、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と悲しみに暮れていても、イエスさまへの信頼を言い表しています。手遅れだと感じていても、主イエス・キリストの願いは、その通りになされるという信頼があります。

マルタは、「あなたの兄弟は復活する」とイエスさまが言われた時「終わりの日の復活の時に、復活することは、存じております」と答えます。神さまの約束として、死の支配から自由にさせられることがあるということをマルタは信じていました。いつか必ずやってくる終わりの日の復活は理解しているけれども、ラザロが死んでしまった今は死が絶対的な力を持ってマルタを支配していていました。イエスさまは「わたしは、復活であり、命である」とおっしゃいます。イエスさまは、死の絶対的な支配から人を自由にする。「いつか終わりの日に」とマルタが思っていたことが、イエスさまによって「今」行われるのです。

「わたしを信じるものは死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも決して死ぬことはない」。イエス・キリストを信じるとき、死はもはや力を失い、この世を生きる人にとって死が絶対的なものではなくなります。やがてわたしたちは肉体の死を迎えることになることでしょう。しかし、それは、罪の結果として死んでしまうということはありません。キリストを信じて洗礼を受けた者は、そういう意味では、もうすでに一度死んでしまっているのです。

キリストに結ばれて、肉体の死、この世の終わりを迎える時、神の栄光と力が示されます。終わりの日、神に喜ばれるものとして立つことができるように、主イエス・キリストは今、その力を私たちのために働かせてくださいます。

《祈り》 復活であり命である主イエス・キリストの父なる神さま。主が、死の絶対的な支配からわたしたちを解き放ってくださいました。死も、命も、現在のものも、未来のものも、どんなものも、主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできません。わたしたちの内なる人を新たにして、目に見えるものではなく見えないものに、過ぎ去るものではなく永遠のものに、思いを向けさせてください。主の御名によってお祈りします。アーメン。

(2022年2月20日 橋本いずみ)