2022年2月6日 主日礼拝説教

 《 愛する者の死 》

ヨハネによる福音書11:1~16

ある病人がいた。…姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。…またその後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」…そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなた方にとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」  (ヨハネ11:1-16)

皆さんは、愛する者の病、そして死を経験したことがあるでしょうか。大切な人を失うということは、言葉では言い尽くせない思いがそこにはあります。食事も手に付かない、食べていても味がしない、何をしていても楽しくない。もしかしたら、今、そのような状況に置かれている人がいるかもしれませんし、愛する者の病、死を思い起こすことで悩み苦しみ、悲しみを深くしているという方もおられるかもしれません。

イエスさまにも愛する者がいました。そして、イエスさまも、愛する者の病を知らされ、愛する者の死に直面することになりました。イエスさまは、マルタとその姉妹マリアとラザロをずっと愛しておられました。姉妹たちマルタとマリアは、使いをやって「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(11:3)と言わせました。姉妹たちには、イエスさまがラザロを愛している(好んでいる)ことを知っていました。姉妹たちには、ラザロがより愛されているように見えていましたが、イエスさまはこの三人をずっと愛しておられました。

マルタも、マリアも、ラザロが死んで、イエスさまとお会いした時の第一声は、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(11:22、32)というものでした。マルタとマリアは、イエスさまが共にいてくださるそのことで、ラザロは助かると信じていました。だからこそ、使いをやって、イエスさまがすぐに来てくれることを期待していたのです。

イエスさまが、すぐにラザロのところに行かなかったのは、この兄弟を愛していなかったからではありません。ラザロが、死んだのは、イエスさまがラザロを愛さなかったのでも、マルタとマリアを愛することをやめたのでもありません。イエスさまは、ずっと彼らを愛しておられたのです。

ラザロは、病気でした。「病気」は「弱さ」とも訳される言葉なのです。人間が地上で身体をもって生きるがゆえに、影響を受けるものを弱さと言います。病気は、弱さの現象の一つです。イエスさまは、弟子たちに「心は燃えていても、肉体は弱い」(マルコ14:38)とおっしゃいます。わたしたちは、病気にならずとも、この体を持って生きている限り、弱さがあり、やがて死に行き着くのです。しかし、イエスさまは「この病気は死に向かうものではない、神の栄光のためだ」とおっしゃられました。

イエス・キリストを信じる者たちは、地上の体は、朽ちるもので、卑しく、弱いものだ(Ⅰコリント15:43)ということを知りながら、朽ちるものが朽ちないものを着ることで、輝かしいもの、力強いものに復活することを信じます。ラザロの弱さ、病の中で神の力が発揮され(Ⅱコリント12:9-10)マルタとマリア、弟子たちは、キリストの栄光を見、信じるようになっていきます。

《祈り》

天の父なる神さま、あなたはわたしたちの死に向かって生きるしかない肉の弱さをご存知です。自らの弱さ、病、死に直面し、愛する者の病、死に直面するときにも、あなたがずっと愛してくださっていることを、思い出すことができるようにしてください。わたしたちの弱さの中で、キリストの力が示され、神の栄光が示されることを信じます。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2022年2月6日 橋本いずみ)