《 イエスが国民のために死ぬ 》
ヨハネによる福音書 11:45~57
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げるものもいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を招集していった。「この男は多くのしるしを行なっているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びなで済む方が、あなたがたに好都合だと考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。(ヨハネ11:45-53)
受難節の日々の中で、主イエス・キリストがわたしたちに代わって死んでくださったということを思い起こします。
「イエスが民に代わって死ぬ」と預言した人がいました。大祭司カイアファです。イエスさまが、十字架にかけられることになる時のユダヤ人側の最高責任者で(18:28)イエスさまをローマの総督ピラトに引き渡しました。
大祭司カイアファを含む最高法院は、エルサレムの神殿(場所)で起こることと、ユダヤ人(国民)に起こることを治めていました。しかし、イエスさまが現れて、多くのしるしを行ないはじめたとき、民の中から、イエスさまを通して神を信じるものたちが出て来ました。イエスさまは、多くのしるしを行なっていて、それゆえに信じ従うものたちがいた、というのは彼らも認めていることです。イエスさまは多くのしるしを行なっているけれども、自分たちは何もしていない。イエスさまを通して、今まで見たこともないようなことが、次々と起こり、ローマも黙ってはおらず、いつか自分たちの場所(神殿)が、国民が奪い取られてしまうと思ったのです。
イエスさまを引き渡そうとしているユダヤ人たち、最高法院の人たちは、自分たちの場所(神殿)と民(人々)が、奪われることを恐れていました。
カイアファは、自分たちの場所(神殿)と国民のために、イエスさまの命をピラトに引き渡しました。自分たちの都合で、イエスさまを引き渡したのです。そうしたら、自分たちの場所と民は守られると考えました。しかし、ここにも神さまのご計画があって、イエスさまは、自分の都合を優先する人たちだけのために死んだのではなく、すべての民が神の民になり、神によって治められるものたちを取り戻すためでした。
イエスさまは、ユダヤ人という一つの民族のためだけではありません。それだけでなく、散らされている神の子たち、囲いの中にまだ入っていない羊も主の声に招かれて、一つに集めるために、主は死んでくださったのです。わたしたちが一つとなろうとする時、私たちは、いつでも思い出さなければならないと思うのです。イエスさまは、神の子たちを一つに集めるために、命をささげてくださったということを。
イエスさまが十字架にかかって死に、復活して天に帰られたのは、天の国に神の子たちが神の御前に一つになる場所を用意するためでした。
《祈り》
天の父なる神さま、わたしたちは、カイアファと同じように、自分の都合を優先して、あなたを犠牲にしています。イエスさまがわたしたちに代わって死んでくださいました。私たちが今、あなたの御前にいるのは、イエスさまによって与えられた命があるからです。あなたが、今日もわたしたちを一つに結び合わせようと働いていてくださることを感謝します。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2022年3月20日受難節第三主日 橋本いずみ)