《 イエスが起こした人を見るために 》
ヨハネによる福音書 12:9~11
イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。
(ヨハネ12:9−11)
過越祭が近づいて、イエスさまは再びエルサレムの近くの村ベタニアを訪れました。ここで、イエスさまは、マルタとマリア、そしてラザロと再会します。
ラザロの死とよみがえりを通して、神の栄光が示され、イエスさまが復活であり、命であることを知った三人は、一つの家に集まり、イエスさまとの関係の中で生き始めました。
ラザロは、キリストと共に食事の席に着き(聖餐)、マルタは給仕をし(奉仕)、マリアは、高価な香油を注ぎ(献金)ました。この三人の姿は、洗礼を受けて、イエスさまと共に歩み始めるとき、どのようにして主イエスとの関係が深められて、神の栄光があらわれるようになるかを示しています。
日本基督教団生活綱領では、洗礼を受けたものがどのようにして歩んでいくかということについて、神の栄光があらわれるように祈り、つとめることが五つ記されています。その第一に挙げられることは、「教会の秩序を、その教えと訓練とに従い、聖日礼拝、祈祷会その他の集会を重んじ、聖餐に預かり、伝道に励み、時と財と力をささげて教会の維持発展につくすこと」という教会人としての在り方です。
洗礼を受けたものは、主によってよみがえらされた者として生きます。それは、教会に来ている時は、そうだけれども、それ以外の時は、以前の姿のままというものではなく、洗礼を受けた人の人格が造りかえられてしまっていて、まったく新しくされた者として生きることになります。
マルタも、マリアも、ラザロの死とよみがえりで今までとは違ったイエスさまとの関わりが始まりました。とくに、ラザロは、自分が眠っている間にまったく新しい存在に変えられていて、イエスさまがよみがえらせた人として、人々からも知られるようになっていたのです。
ラザロは、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロ(12.1,9、11)と言われ、彼が生きていること自体が、イエスさまの力と存在をあらわすようになるのです。そして、思っても見ない形で、人々の注目を浴び、イエスさまを殺そうと企てる人たちの的になるのです。
イエスさまは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2:19,20)とおっしゃったとおり、死者の中から復活されます。ラザロは、壊されても、立て直すことができるキリストの力によって、生きていました。
イエスさまが起こしてくださらなければ、彼の人生はなかったのです。そして、そのことを確かめるようにして、食事の席についていました。
イエスさまに関心を寄せる人は、イエスさまがよみがえらせた人を見るために集まってきました。そして、彼らは、イエスさまが起こしたラザロの姿を通して、信じるようになりました。
《祈り》 よみがえりの主イエス・キリストの父なる神さま。わたしたちは、イエスさまによって、まったく新しい存在につくり変えていただきました。ラザロが目覚めた時、自分の身に起こったことでイエスさまを信じるものが次々に起こされていったように、わたしの身に起こることを通して、主の栄光と力があらわされますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2022年4月3日受難節第五主日 橋本いずみ)