2022年5月1日 主日礼拝説教

《 栄光を現してください 

ヨハネによる福音書  12:27~36

「今、わたしは心騒ぐ。なんと言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさしくこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆はこれを聞いて「雷が鳴った」と言い、他の者たちは「天使がこの人に語りかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスはご自分がどのような死を遂げるかを示そうとしてこう言われたのである。(ヨハネ15:5−17)

イエスさまも心騒ぎ、不安になることがありました(12:27)。ラザロの死に際して(11:33)、弟子の一人が裏切ろうとしている時(14:1,27)、イエスさまは動揺しています。この動揺は、ずっと天の父のもとから、この世に来られたからこそ感じることになったものでしょう。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」と自分がどのような死を遂げるかを告げる時、動揺しています。

御子イエス・キリストが動揺しているということは、イエスさまの友となる弟子たちやキリスト者たちも、動揺し、不安になることがあるということです。

イエスさまは、死の時が近づいて心騒ぐとき、「なんと言おうか『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」と魂の自然な動きを告げています。魂の同様、心の不安は、父なる神さまの前で言葉にすることが許されていています。不安や心が騒ぐことは自分の中で解消せねばならないことではなくて、父なる神さまに言葉にしてよいことです。

しかし、イエスさまの言葉は、それで終わりません。「しかし、わたしはこの時のために来たのだ」と自分の使命に立ち返り、「父よ、御名の栄光を現してください」と告げています。

このイエスさまの言葉に対して、「わたしはすでに栄光を現した。再び栄光を現そう」と天からの声が聞こえます(マタイ3:17、マルコ1:11、ルカ3:22)。イエスさまは父のもとから遣わされてきたと、天から降ってきた(3:12,13、6:33,38、)とこれまでも語ってこられました。天からの声は、イエスさまを遣わした父の声(17:1)です。御子イエス・キリストを通して栄光を輝かせてきた神は(ヨハネ2:11、11:4,40)、イエスさまが、死ぬこと、裏切られることをもって、栄光を現されます。そしてさらに、イエスさまの言葉を聞いたものたちが、イエスさまに従うことによって、栄光をお受けになります(15:8、21:19)。イエスさまの十字架にあげられる時、闇の支配が裁かれるのです。主が地上から上げられる時、すべてのものを、父なる神のもとに引き寄せられます。

主イエスによって、神は栄光を示し、私たちをご自分のもとに引き寄せてくださいます。

《祈り》 

栄光の主イエス・キリストの父なる神さま。あなたは、主の十字架によってあなたに敵対している世を裁かれました。わたしたちもどっぷりとこの世に浸かっていましたが、そこからあなたが救い出してくださいました。この世において、あなたに従おうとする時、不安になり、動揺し、あなたに祈ります。主よ、あなたの御名の栄光を現してください。主の御名によって祈ります。アーメン。