《 神からの誉れ、人間からの誉れ 》
ヨハネによる福音書 12:36~43
このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。…彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」イザヤはイエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にも信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々ははばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。(ヨハネ12:36−43)
イエスさまは、多くのしるしを行われ、世界を創造し神の民を導いてこられた父なる神さまが、世界の救いのために働いておられることを示してこられました。
しかし、聖書が告げることは、それらを目の前で見た人たちも信じなかったということです。そして、彼らが信じなかった理由とともに、イザヤの言葉(イザヤ53:1、6:10)の引用で説明しています。
わたしたちは、毎週、礼拝において信仰告白します。わたしたちの信仰は与えられたものです。信仰がまったく与えられたものであるということは、信じられないということにおいても、神の働きがあるということです。イエスさまのしるしを目の前で見ても、その言葉を聞いて信じなかったのは、神が彼らの目を見えなくし、心をかたくなにしたのだと語ります。神によって信じられなくされていたから、信じられなかったのです。
今の日本で、イエスさまを神の御子キリストであると信じている人は、ごく少数で、多くの人たちは信じていません。けれども、ここにも神の働きがあり、希望があります。私たちもかつては信じられない者であったけれども、今は神によって信じる者にされています。
わたしたちは信じない人にする時、神に祈るのです。彼らの目を見えるようにし、その心を柔らかくしてくださいと。なぜなら、神がその目を開いてくださることによってしか、人は信じるようにならないからです。
信じなかった人ともに、イエスさまへの信頼を呼び起こされたのに、公に言い表さなかった人がいたということが告げられています。彼らは、公に言い表さなかったので、周りから見れば、信じなかった人たちと同じです。
彼らは、自分たちが追い出されること、自分たちの場所が失われることを恐れました。そして、彼らは、イエスさまによって神の栄光がすばらしいと思いながらも、人間の栄光をより好ましいものとして思っていたというのです。
聖書は、わたしたちの真の姿を見抜きます。自分の場所を失うことを恐れていること、イエスさまへの信頼が呼び起こされ神の栄光を求めていると言いながら、人間の栄光も求めていることを。わたしたちが、イエス・キリストを通して働かれる神を語ろうとしないとき、信じたのに公に言い表さなかった人たちと同じような思いがあるということを。
しかし、主は、神の栄光だけを求めて、人々の前でしるし行い、十字架への道を歩まれました。人は、このお方を心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。(ロマ10:9,10)
《祈り》 光の主イエス・キリストの父な神さま。わたしたちの目に光を与えて、神さまがこの世界において、人々の救いのために働いておられることが、見えるようにしてください。私たちを御心を受け止めることができるように柔らかくしてください。主イエスを信じて、公に言い表して、神さまの栄光を求めるものにしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2022年5月15日橋本いずみ)