2022年5月29日 主日礼拝説教

《 この上なく愛し抜かれる 

ヨハネによる福音書  13:1〜11

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへと移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食の時であった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

(ヨハネ13:1-5)

イエスさまの時がやってきました。父のもとへと移る時、一粒の麦が地に落ちる時、十字架にあげられ、栄光を受ける時がやってきました。ルカによる福音書では、この時を「エクソドス(脱出、最期)」(ルカ9:31)と言いました。出エジプトによって神の栄光が示されたように、イエスさまの最期、弟子たちと離れて父のもとへと移ることによって、神の栄光が示されます。

父なる神さまは、イエスさまにすべてをゆだねておられます。すべてを与えた。この「すべて」の中に弟子たちはおり、私たちもいます。世界の創造主にして、私たちをこの時代、この所に生んでくださった神さまは、わたしたちを主イエスにゆだねておられます。「神にゆだねることができない」と聞くことがありますが、まず受け止めなければならないのは、すでにわたしたちは「ゆだねられた存在」だということです。

 キリストは、この世に残るご自分のものを愛し、この上なく愛し抜かれた。この上なく愛される、完成まで、目標まで、最後まで、終末まで、極みまで愛されます。

この上なく愛するというのは、心や言葉だけでなく、行為を伴うことで、十字架に挙げられることと足を洗うことです。

イエスさまは、弟子たちの足を洗います。イエスさまの弟子は、みんなイエスさまに足を洗ってもらいました。イエスさまに足を洗ってもらわずに、イエスさまの弟子であることはできません。

ペトロは、足を洗っていただくときに、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いましたがイエスさまは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言っています。イエスさまが足を洗ってくださったことによって主とわたしたちは結ばれるのです。

主は弟子たちの足を洗う時、上着を脱ぎ(ヨハネ19:23)、手ぬぐいをとって腰にまとわれ、奴隷の格好になりました。弟子たちは綺麗になっていきましたが、イエスさまの衣は汚れていきました。ペトロも他の弟子たちの誰も、何でイエスさまがこのようなことをしているのか分かっていません。でも、イエスさまは「後でわかるようになる」とおっしゃいました。

ペトロは、イエスさまを「知らない」と言い、自分の罪深さの中で、分かるようになりました。自分がお従いしてきた主は、裏切り者がいても愛し抜かれ、最後まで愛するがゆえに、十字架にかかってくださる主であると知って立ち直っていくのです。

《祈り》世界を創造し、この世を愛するがゆえに御子を送ってくださった神さま。イエスさまが足を洗ってくださることによって結ばれた関係であることを、感謝と驚きをもって今、受け止めています。主が、どこまでも愛してくださると信じます。この主の愛にとどまり続けることができるように、お導きください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2022年5月29日橋本いずみ)