2025年4月6日 主日礼拝説教

《 信仰をもって、天の故郷を切望する 》

ヘブライ人への手紙 11:13~16

この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このようにいう人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。 (ヘブライ人への手紙 11:13〜16)

信仰によって、アベルは、アベルにしかない人生を歩み、エノクも、ノアも、アブラハムも、イサクとヤコブも、サラも、それぞれに神への信頼のうちに生きました。信仰による生き方は、一辺倒ではありません。様々な生き方を生み出します。信仰によって、アベルは、献げ物をし、エノクは、死を見ることなく生き、ノアは、箱舟を造りました。信仰によって、アブラハムは、故郷を離れて旅立ち、イサクとヤコブは、アブラハムと同じように旅を続け、サラはアブラハムと共に新しい命と祝福を生み出す力を与えられました。神への信頼―神が約束に真実であられるということを知っているということが、一人一人を特別な生き方へと導いていきました。

このようにして、信仰によって、生きた人たちは、信仰に基づいて死にました。信仰は、それぞれに違う生き方、その時代のその人にしか歩むことのできない特別な生き方を生み出していきますが、信仰に基づく死は、同じことを言い表す。彼らの人生は、不完全な者であり、中断され、道半ばで終わりを迎えたのです。信仰に基づいて死んだ人たちは、皆、約束されたものを遠くに見ながら、約束されたものを見て喜びの挨拶をし、自分たちはこの地上では、よそ者、旅人であることを告白したのです。

何かを成し遂げることができなかった不完全な人生、道の途中で、その人生が終わりを迎えたとしても、信仰の道は、イエス・キリストが始められ、完成される道です。そして、その道半ば命の終わりを迎えた人たちをイエスさまが天の都まで連れて行ってくださいます。

神さまは、このような信仰によって生き、信仰に基づいて死ぬ者たちを恥となさらない、イエスさまは、彼らを兄弟と呼ぶことを恥となさらない(2:11)と言われています。逆に、「恥じる」(マルコ8:38)というのは、評価が下がったと感じたり、みっともないと思ったりすることで、キリストから離れてしまうこと。

キリストのなしてくださったことを思う時に、主の期待に応えられなかったと思ったり、失敗や失言を情けない、面目ないと思うことがあるかもしれません。しかし、神は、信仰に生きるものたちを恥じないというのは、このことによって、神の名誉が傷つくこともないし、あなたの名誉を傷つけることもないということです。信仰をもって歩む者たちの未完の人生をキリストが満たしてくださって、天の都へと導いてくださいます。

《祈り》

天の父なる神さま。主の御苦しみと十字架を思い起こしつつ過ごす日々の中にあって、今日もあなたの真実を示し、あなたへの信頼に生きるようにと導いてくださいました。私たちのどんな人生も、キリストが満たしてくださることを信じ感謝します。十字架と復活の主の栄光が、あらゆる時に、あらゆる場所で、ほめたたえられますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2025年4月6日 橋本いずみ)