《 キリストとはどの様なお方か 》 マルコによる福音書8:27~9:1
今、教会の暦は受難節(レント)と呼ばれる時期にあります。受難節とはイエス・キリストが十字架で担われたご受難を思い起こし、そこに湛えられている神様の恵みを覚える季節のことです。十字架がどのような意味で、私たちのための出来事だったのかをきちんと見つめ直すのがこの時なのです。されば主イエスの十字架は、歴史では過越祭の中で起こったことが判っていますので、代々の教会は毎年その日から逆算して主イエスが歩まれた十字架への道行きをなぞって来たのでした。
では福音書においては、主イエスの受難の道行きは一体どの場面からとなるのでしょうか。それについては今朝お読みした場面からと理解する人が多いのです。主イエスがここで初めて弟子たちに対し、自分が「多くの苦しみを受け」「長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され」「三日後に復活すること」(31 節)を告げているからです。十字架を前提に話が進みだしたのはここから、という訳です。でもこの場面は、単にそういう報告の場面というだけではないのです。ここは弟子たちが、初めてイエス様のことを、自分たちの「メシア」(29 節)だと告白したところ・・・単なる預言者や律法の教師と言う意味を超えて、自分たちの救い主であるという表明をしたところだからです。そして弟子たちからそういう告白を受けるに及んだからこそ、それがどういう意味かを教えるようにして、主はこれから起こるエルサレムでのことを話し始められたのでした。つまり「苦しみを受け」「殺さ
れ」「復活すること」が救い主、キリストの救いをもたらすも務
めなのだということを明かされたのです。
ところが当時の弟子たちはその意味がピンときませんでした。
何それ、それのどこが救いになるの。むしろ自分の救い主が
そんなでは困る、と思ったのです。というのも弟子たちは自分
勝手に「救い」とはこうだと思い描くものがあって、それをイ
エス様に押し付けようとしていたからです。ここには弟子の
ペトロがイエス様を脇にお連れして「いさめ」たと書いてあり
ます。いさめるとは叱って諭すことです。イエス様を叱るって
何と大胆なんでしょう。でもそういうことを私たちはしてないと
言えるでしょうか。予想外のことが起こったり、辛いことがあ
ったり、自分の性根の腐り加減を認めざる得ないことがあっ
たりすると、神様、おかしいです、こんなのあり得ません、そっ
ちで世界を修正してください、と思ったり、祈ったりしていたり
しないでしょうか。そして、そういう私たちの思惑通りに世界
を変えてこそ、真の神の子であり、救い主だと思ってしまって
いないでしょうか。何が正しいのかをお決めになるのは神様
なのに。そういうペトロに主は「サタン、引き下がれ。あなたは
神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言われまし
た。この様にこの場面は、弟子たちが折角初めてイエス様の
ことを救い主だと告白したのに、その中身はまるで勝手な意
味で捉えてしまっていたことが、全くあからさまになってしまっ
た場面でもあったのです。
でもだからこそイエス様は、神様を見下げていることにすら
気付かぬ人間が、それでも罪赦されて、神様との間に和解
を得、健やかに生きていくためにと、私たちの身代わりに死と
滅びの重荷を背負ってくださったのです。神様は、私たちを
滅ぼして世を正すのではなく、御子を身代わりとして滅びを
背負わせることにより、私たちの人生が例え自分の思い通り
のものでなかったとしても、なおその私たちの人生を愛し、祝
福していて下さることを明らかにして下さったのでした。
(2026年3月1日 須磨月見山教会 高橋 爾)

