2025年12月7日 主日礼拝説教

《 神は我々と共におられる 》

マタイによる福音書 1:18~25

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

(マタイ1:20-23)

主イエス・キリストの誕生について、マタイが告げていることを、今日は聞きました。ヨセフに、聖霊によってマリアに宿った子男の子をイエスと名付けるようにと命じられます。

イエスと名づけられる、インマヌエルと呼ばれる。

自分の民を罪から救う=神が我々と共におられる。

主イエス・キリストにおいて、神はご自分の民を罪から救い、わたしたちと共におられる。罪からの救われるということは、すなわち、神が共におられることです。

先日、イエスさまが「父と二人の息子のたとえ」を語られた聖書箇所を取り上げました。父は二人の息子を愛して、二人の息子と共にいることを喜んでいました。

二人の息子は、神の守りと恵みの中で生かされていることを自覚していませんでした。それが、罪。神の恵みによって生かされていることが分からないで、弟は家を飛び出し、兄は義務感で働き続けていました。父は、兄弟を愛して、共にあることを喜び、関係を築こうとされていました。

聖書がいう、罪は、神への罪に他なりません。相手のいない失敗や過ちではない。罪は的外れ、迷い。具体的な罪の行為や違反だけでなく、人間の持っている神に敵対する性質。迷っているから、救われなければならない。イエスさまによって、神さまはご自分の民を、祝福の道に連れ戻そうとされることを決心して、主イエス・キリストをお与えになりました。

罪の自覚は、そのことによる、神の痛みや悲しみを知るということです。私たちは、主イエス・キリストの姿を通して、神の痛みや悲しみを知ります。

一日一章で申命記を読んでいます。神さまが命じておられることがいろいろ書かれていますが、神さまが命じている、その心が見えるものもあれば、私には分からないこともあります。

「塩狩峠」の映画。罪がわからない主人公に、聖書の言葉の一つを徹底的にやってみることを勧める。

神への罪の自覚。愛し尽くしてくださる神を知る。悔い改め。神がわたしたちと共にいてくださることを知る。

アドヴェントは、感謝と悔い改めのときです。御子を世にお遣わしになった神の思いを知る。神は、罪から救われることを願い、わたしたちとともにいることを願っておられます。

《祈り》

天の父なる神さま。主イエス・キリストが私たちを罪から救い、神がわたしたちと共にいてくださることを示してくださいました。聖書に記された主イエス・キリストの姿によって、神さまの心を教えてください。自分よがりな私たちの言葉や行いや思いが、あなたにもどかしい思いをさせてきました。どうか主よ、わたしたちと共にいてください。聖霊なる主が、私たちのうちにおいでくださって、主と思いを一つにして、新しく生きるものとしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2025年12月7日アドヴェント第二主日 橋本いずみ)