《喜びの源へ》
フィリピの信徒への手紙 2:6~11
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
(フィリピの信徒への手紙 2:6~11)
主の日の礼拝を共にできます幸いを神様に感謝いたします。私は奈良高畑教会の牧師ですが、西宮一麦教会との深い繋がりを覚えます。礼拝堂の聖餐卓や椅子のデザインが奈良高畑教会のものとほぼ同じであることに親近感を覚えますし、西宮一麦教会出身の原田雅子牧師とは奈良地区の教師会で親しくお交わりをいただいています。また、私の夫(藤川義人牧師)の母教会が立花教会で、橋本いずみ牧師との親交も与えられてきました。また、西宮一麦教会のルーツが賀川豊彦氏による「一麦寮」にあることにも親しみを覚えます。私の祖母が(既に召されてますが)、長野の田舎から上京し東洋英和女学校で保育について学んだ時に、戦時下の厳しい状況の中で賀川氏から授業を受け、農村の活性化や信仰の基礎を学び、その経験を生涯の支えとしていました。場所や歴史を超えてキリスト者が点と点が繋がる不思議な導きを感謝します。
本日は皆様と共に「喜び」についてみ言葉から聞きたいと願っています。聖書には「喜び」について多くの箇所で記さ
れていますが、私たちは時に現実の苦難や教会の課題の中で「とても喜べない」と感じることがあります。それはもしかしたら「喜び」と「悲しみや苦しみ、困難」を引き離して捉えて
いたからかもしれません。むしろ本当はそれらは一つのものなのかもしれないと気付かされます。例えば、家族を亡くした喪失感(悲しみ)の中には、共に過ごせたことへの感謝や愛(喜び)が内包されています。「喜びの響きを備えた悲しみ」あるいは、「悲しみを含んだ喜び」があります。「喜び」は私たちの想像を超えた広がりを持つものであることが見えてきます。
この視点は、パウロやキリストが抱いた喜びを理解する鍵となるのではないでしょうか。フィリピの信徒への手紙 2 章には喜びについて記されています。そして今日お読みしている箇所には、喜びの源であるキリストの姿が記されています。キリストは神の身分でありながら、それに固執せず、僕の身分となって十字架の死に至るまで従順であったとあります。
キリストの喜びは、神であることに固執せず、人の救いのために犠牲となり、命を失い、そして復活することにありました。悲しみの先にある喜び、苦難の先にある喜びを見つめるキリスト。この姿は、パウロにも受け継がれていきます。パウロにはキリストを宣べ伝えているからこその困難があります。獄中の中から書く手紙には、困難をも喜ぶパウロの姿が映し出されています。そこには真の喜びが現れています。もし今、私たちが困難の中にあるとしたら、それはこのキリストの喜び、パウロの喜びを知るチャンスです。私たちは、悲しみや絶望の中でこそ、キリストにつながる、静かな、しかし確かな喜びを与えられます。悲しみや苦しみの中でこそ与えられる喜び、キリストの十字架につながる喜びの中をこれからも共に生かされたいと願います。
(2026年1月11日 奈良高畑教会 藤川綾子)

