2026年2月15日 主日礼拝説教

《7000 人の味方》ローマの信徒への手紙11 章1~10節

本当に悲しくて辛い状況の際、「何故私だけがこんな経験を・・・」と嘆き、深い孤独と恐怖に苛まれるような経験はないでしょうか。列王記上 19 章以下には、そのような孤独感に陥った旧約の預言者・エリヤの姿が描かれています。
彼はアハブ王の時代、真の神に敵対するバアル(異教の神・偶像礼拝の象徴)の預言者450人と一人で対決し、祈りによる勝利を得て、主なる神こそが真の神である事を証明した勇者です(列王記上 18 章以下)。しかし、勝利はしたものの、周りを見回すと自分一人だけ取り残されたと孤独に陥り、アハブ王の復讐が始まるという恐怖に襲われ、すっかりと気弱になってしまいました(列王記上19章10節)。
そのような彼に神は、「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」・・・同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。(ローマの信徒への手紙 11 章 4~5 節)と、励まされました。つまり、「エリヤは自分一人だけが残り、孤独に陥っているが、イスラエルの人々の中でバアルにひざまずかない七千人を残している。今は見えていないだろうが、私は確かに彼らを選んでいるからあなたは孤独ではない、七千人の味方がいるではないか。」と仰せになったのです。
私たちもエリヤのように熱心に祈り、祈りが届けられても、周りの荒波を見てはすぐに不信仰に陥ります。これが信仰者の現実で、実に弱い者であります。信仰とは一人で頑張って歩むことは不可能であるといえます。そのような私たちを神はご存知で憐れんでくださり、決して孤独にさせません。恵みによって、同じ悩み、同じ思いの 7000 人の味方を既に備えてくださっているのです。どん底から共に祈る友が与えられ、どん底と見える場所で一緒に神に支えられ励まされながら、信仰の道を歩んでいることを本日の箇所から教えられます。
私たちはお互いにそのように恵みによって残された者、神の残された神の民なのです。イエス・キリストの十字架によって赦された神の民、赦されなくてはならなない神の民です。皆、弱さと限界があります。そのような者たちが、互いに神の元で痛みを共有し、弱いお互いが神に受け入れられているのです。そこで深い出逢いが生まれ、どんな辛いこと、悲しいこと、私だけではないこと、そこで支えられて信仰の歩みをしていく私たちであります。イエス・キリストの元で残された 7000 人の与えられた恵みを信じて共に生きるのが教会の姿なのです。
説教後の讃美歌「善き力にわれ囲まれ」(ボン・フェッファー作詞)を共に味わいたいと思います。彼はナチ政権に抵抗しようとして捕えられ処刑されたドイツの神学者・牧師でした。処刑される数か月前、収容所で婚約者にあてて書いた詩を元に作られた讃美歌であります。当時彼はアメリカで暮らしていましたからアメリカにいれば安全でしたが、神の声を聞き、故国ドイツに戻ってナチスへの抵抗運動に加わり、収容所で処刑されました。誰もが絶望に襲われる状況の中で、善き力に囲まれて希望を抱き感謝を忘れなかった真の信仰者の姿です。
「善き力にわれ囲まれ 守り慰められて 世に悩み共にわかち新しい日を望もう。過ぎた日々の悩み重く なおのしかかる時もさわぎ立つ心しずめ み旨に従いゆく。善き力に守られつつ 来
るべき時を待とう 夜も朝もいつも神は われらと共にいます・・・」彼には、目に見えるナチ政権の恐怖ではなく、主なる神が備えてくださっていた目にみえない 7000人の味方が見えて
いたのです。私たちの信仰生活も孤独ではありません。7000人の善き力に囲まれている幸いに感謝いたします。
(2026年2月15日 京都復興教会 佐々木良子)