《 さあ、見に来てください 》
ヨハネによる福音書 4:27〜42
ちょうどその時、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへとやってきた。」(ヨハネによる福音書 4:27〜30)
水がめを置いて
サマリアの女性は水がめをおいて町に行きました。負目があり人を避けて水を汲みに来ていた女性(4.6-7)が、人々の集まる町へと向かって行きました。
水がめは、唯一彼女が渇きを自分で癒すことのできる道具でしたが、主イエスがキリストであり、すべてを知って、なお受け入れてくださると知った時、握りしめていた水がめを手放しました。
イソップ寓話の「北風と太陽」では、旅人の上着を脱がせたのは、北風ではなく、太陽が燦々と照りつけたからでした。
水がめを「置いたまま」、と訳された言葉は、「投げ捨てる」「解き放つ」「自由にする」「赦す」という意味があります。ヨハネによる福音書では、20章21〜23節で、復活の主イエスキリストからの賜物として、聖霊とともに罪の赦しの権能が与えられています。
この女性が、渇きを癒すためにしっかりと握っていたものを手放すことができたのは、深い洞察をもってわたしたちを見つめ、対話し、赦してくださる主イエスと出会ったからです。
わたしたちにとって、自分の罪や過ちを認めることは難しいですし、こだわり続けてしまうものです。自分の罪や人の罪を赦すこと、今まで自分の渇きを癒し、安心を与えてくれたものを手放し、神に委ねるというのは難しいことで、厳しく注意されたり、努力すればできることでもありません。
そのとき、そこで
「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」とキリストが語られたときであり、キリストが来られるときに、わたしたちは罪赦されて立つことができるのです。霊と真理が与えられて、神を礼拝することによって、自分では手放すことができなかったものを手放し、自らの罪を赦し、人の罪を赦ことができるようになるのです。キリストがもしおられないなら、わたしたちはいつまでも赦せない自分にこだわり続けるでしょう。しかし、キリストは手放す可能性をくださいましたし、赦せないわたしたちに、キリストは、赦す自由をくださいました。
サマリアの女の証言
「さあ、見に来てください」と一人の女性がキリストとの出会いを証言によって、イエス・キリストのもとに大勢のサマリア人がやってきました。ユダヤ人とサマリア人との関係は断絶していたのですが、サマリア人もまた、キリストを信じるものとして、神に受け入れられるものとなりました。
《祈り》
霊と真理をもって礼拝することを求めておられる父なる神さま。もし、キリストが神の身分であり神と等しいお方であることに固執しておられたら、わたしたちは救われなかったでしょう。神の御子イエス・キリストが、人間と同じものになってくださって来てくださいました。わたしたちの負目をわたしたちに、赦せる自由をください。自分と違ったものを受け入れる寛容さを与えてください。主の御名によって祈ります。アーメン。 (2020年11月8日橋本いずみ)