礼拝説教 2020年度









2021年4月11日主日礼拝説教

《 それが神の業である 

ヨハネによる福音書6:22-33

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物ではなく、朽ちない食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である、父である神が人の子を認証されたからである。」そこで彼らが「神の業を行うためには、何をしたらいいでしょうか」と言うと、イエスは言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(ヨハネ6:26〜29)

 パンの奇跡の後、群衆はイエスさまを追いかけて、やってきました。人々が、イエスさまを求めて、やって来たのは、パンを食べて満腹したからでした。さらなる恵みを求めて、イエスさまのところに人々は、押し寄せて来ました。

 今日読んだ聖書の箇所から59節まで、あのパンの出来事を通して、神さまがなされていることを語られます。人々がパンの出来事を通して、主イエスに期待したことと、神さまの御子イエス・キリストがパンの出来事を通して、お示しになろうとしたことには、違いがありました。

パンをいただいた人々は、空腹や欠乏を満たす賜物をさらに求めて、やって来ましたが、パンを与えたお方こそが、天からの賜物なのです。

聖餐式では、「キリストの体」と言われるパンを食べます。他の何者でもない、キリストご自身が、わたしたちを養ってくださることを、身を以て体験します。わたしたちを生かしてくださる。わたしたちの生を根元から支えているのは、キリストです。

「キリストの体」をいただいて生きるものは、キリストご自身がそうであったように、「キリストの体」として永遠の命のために働きます。キリストは、そのことを命じておられますし、永遠の命のために働くことを喜んでくださいます。

それでは、キリストの体として、永遠の命に至る食べ物のために働き、神の業を行うためには、何をしたら良いのでしょうか? それは、あなたがたが神から遣わされた方イエス・キリストを信じるということです。どのような状況にあっても、神が遣わされた主イエス・キリストへの信頼があること、それが神の業です。主イエス・キリストは、十字架に上げられ、その命をささげてくださいました。そして、三日目によみがえり、死の縄目からわたしたちを解き放ち、天においてわたしたちを守っていてくださるお方です。このお方との親密な人格関係こそが、信仰の真髄です。わたしたちは、このお方の命をいただいて、生きています。

「パウロも、アポロも、ケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」(1コリント3:22)神は、御子を認証されました。(27節)そして、わたしたちもキリストのもの、神のものとし、私たちの心に“霊”wp与えてくださいます。(Ⅱコリント1.22)

【祈り】

復活の主イエス・キリストの父なる神さま。復活された主イエス・キリストがわたしたちにご自身を与えてくださいましたから、わたしたちの目の前にどんなに悲惨な世界が広がっていようとも、恐れません。生きることも、死ぬことも、今起こっていることも、将来起こることも、あなたの御手の内にあると信じます。主よ、あなたがわたしたちを救い出し、慰め、励まし、キリストの体の一部として、永遠の命に至る食べ物のために働かせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2021年4月11日 橋本 いずみ )

2020年11月8日主日礼拝説教

《 さあ、見に来てください 》

ヨハネによる福音書   4:27〜42

ちょうどその時、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへとやってきた。」(ヨハネによる福音書 4:27〜30)

水がめを置いて

サマリアの女性は水がめをおいて町に行きました。負目があり人を避けて水を汲みに来ていた女性(4.6-7)が、人々の集まる町へと向かって行きました。

水がめは、唯一彼女が渇きを自分で癒すことのできる道具でしたが、主イエスがキリストであり、すべてを知って、なお受け入れてくださると知った時、握りしめていた水がめを手放しました。

イソップ寓話の「北風と太陽」では、旅人の上着を脱がせたのは、北風ではなく、太陽が燦々と照りつけたからでした。

水がめを「置いたまま」、と訳された言葉は、「投げ捨てる」「解き放つ」「自由にする」「赦す」という意味があります。ヨハネによる福音書では、20章21〜23節で、復活の主イエスキリストからの賜物として、聖霊とともに罪の赦しの権能が与えられています。

この女性が、渇きを癒すためにしっかりと握っていたものを手放すことができたのは、深い洞察をもってわたしたちを見つめ、対話し、赦してくださる主イエスと出会ったからです。

わたしたちにとって、自分の罪や過ちを認めることは難しいですし、こだわり続けてしまうものです。自分の罪や人の罪を赦すこと、今まで自分の渇きを癒し、安心を与えてくれたものを手放し、神に委ねるというのは難しいことで、厳しく注意されたり、努力すればできることでもありません。

そのとき、そこで

「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」とキリストが語られたときであり、キリストが来られるときに、わたしたちは罪赦されて立つことができるのです。霊と真理が与えられて、神を礼拝することによって、自分では手放すことができなかったものを手放し、自らの罪を赦し、人の罪を赦ことができるようになるのです。キリストがもしおられないなら、わたしたちはいつまでも赦せない自分にこだわり続けるでしょう。しかし、キリストは手放す可能性をくださいましたし、赦せないわたしたちに、キリストは、赦す自由をくださいました。

サマリアの女の証言

「さあ、見に来てください」と一人の女性がキリストとの出会いを証言によって、イエス・キリストのもとに大勢のサマリア人がやってきました。ユダヤ人とサマリア人との関係は断絶していたのですが、サマリア人もまた、キリストを信じるものとして、神に受け入れられるものとなりました。

《祈り》

霊と真理をもって礼拝することを求めておられる父なる神さま。もし、キリストが神の身分であり神と等しいお方であることに固執しておられたら、わたしたちは救われなかったでしょう。神の御子イエス・キリストが、人間と同じものになってくださって来てくださいました。わたしたちの負目をわたしたちに、赦せる自由をください。自分と違ったものを受け入れる寛容さを与えてください。主の御名によって祈ります。アーメン。 (2020年11月8日橋本いずみ)

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